谷川俊太郎の「言葉のインフレ2」
先日、谷川俊太郎氏が亡くなり、この記事を書いた。なんとなく、この記事をもう少し深く考えてみようと思って第二弾。
言葉のインフレ。何度聞いてもこの言葉派とても印象的。
言葉が、どんどんと膨張していき、やがては内部分裂してバラバラになる。
わたしたちは今そんな危機の時代に生きているのではないかと最近考えたりする。
どの言葉も皆、ブクブクに太っていって、最終的には破裂してしまう。そこまで言葉の意味があるいみ、膨張しているとも言える。この膨張が進み、そして破裂の時が来る。それが今なのではないかと思ったりする。
破裂して、バラバラの破片になったことば。これをわたしたちは自分たちに都合良くつなげて、それを言葉として使っているが、そこには本来の言葉の意味など何も存在などしてはいない。
バラバラに砕けたモノをつなぎ合わせて、それを言語だといっているに過ぎない。
言語、つまり、ことばとは私がかんがえるに、私たち人間がつくり出すモノではなく、そこにあるものなのではないかと思う。
よく、”ことばを紡ぐ”というが、私たちがことばを紡いでいくと考えると、そのことばの主が私たち人間になってしまう。
私たちがことばを紡ぐのではなく、私が考えるに言葉、つまり言語というモノはそもそも私たち人間が紡がなければならないモノではなく、そもそも、そこに紡がれているモノなのではないかと最近考える。
人間というのは、いつの時も自分主体で考えようとする。何でもかんでも、私が~するという。でも、その主体が入れ替わったとき、~が私をすると考えたとき、この世界は全く違ったように見えるのではないかと思ったりする。
「私たちは、言葉を紡ぐモノなのか?それとも、言葉が、私という存在を紡ぐのか?」これはずっと私の中の疑問だ。
でも、1つ確かに言える事は、今わたしたちが紡いでいることばは、明らかに、バラバラに砕けた言語の破片を自分たちで好き勝手にコラージュして形にしたものだということ。
バラバラのモノを1つにかためてそれを言語だと言う。本当は程度の低いモノなのに、それを隠して、とても高価なモノの様に見せかける。
これが言語にもそのまま当てはまる。そんな気がする。
これを見れば、わたしたちの使っている言語もまた同じ仕組みでできていると言うことがもしかしたらわかるかもしれない。