本当にボランタリー経済は素晴らしいものなのか?(ボランタリー経済の抱える矛盾)
今月のForbs Japanの田坂広志氏の記事に、以下の様な事が書かれていた。
田坂広志氏のいうボランタリー経済というのは、確かにネット革命以降その影響力を大きくはしたと思う。
ネットというものを通して、多くの人がいろいろな地点で様々な情報を共有するようになり、この目に見えない資本というものはつながれてきた気はする。
でも、このボランタリー経済というのも、その背後には、人間の欲が隠されている気がする。
ボランタリー経済とは、相手のためにするということが大前提に立っていなければ成立しないのではないかと思ったりする。
ただその相手のために、この社会の為に何かをする。
でも、今のボランタリー経済と言っているものは、みな自分のためのボランタリー経済だと思う。
これがボランタリー経済だと言いながら、その背後には、常に貨幣の存在がちらつく。
貨幣なしではこのボランタリー経済も動いていないような気がする。
それにこのボランタリー経済というのは、ある側面から見ればとても素晴らしいものに、見えるが、ほかの場所にスポットをあってて見てみると、結構このボランタリー経済のあまりよくない一面が見えてきたりする。
ボランタリーだの、関係資本だの、知識資本だの、評判資本だの、文化資本だというけれど、こうしたものが、意外に私たちの心から奪っていくものは多い。
つまり、体裁はいいのだが、その中身は結構おぞましいものばかりだったりする。
縁やネットワークなどの人的結びつき、これはいい部分だけを見れば、素晴らしく思えるが、この人的結びつきがもたらすデメリットもかなり大きい。
他と結びついてしまったことによって、意外に自分の時間を搾取されてしまうという可能性も否定できない。
人々の互いの信頼関係というのも、そのメリットを語ればいくつもある。でも、そのデメリットを考えれば、その信頼関係によって、自分ががんじがらめで自由を失うというデメリットもある。
信頼していたのに、裏切ったのだのなんだのと、その信頼関係でつながれたコミュニティは、そのコミュニティからの脱退を意外に否定的にとらえることもある。つまり、信頼とは、裏を返せば、拘束となることもある。(これは余談だが、映画レ・ミゼラブルを見ればこのことがよく理解できるのではないかと思う。)
地域や社会の助け合いの文化、これもやはりメリットを語れば、そのメリットは語りつくせないほどあるのだろう。でも、そこで強固なコミュニティが出来上がると、そのコミュニティは、外部からのものを受け入れない排他的な組織になることもある。
田坂氏の語ることは、素晴らしいといつも思うが、こうしたことを成し遂げるには、本当に目に見えない経済を実現するには、やはり、個人の精神、または魂の高度をさらに上げ、純化しなければいけないと思う。
極限まで、自分の中を巣くっている欲望、これをそぎ落としていかなければいけないと思う。こうしたことをなせるのは、より洗練された魂だけであると思ったりする。
純度が低い魂が作り上げる共同体とは差別主義的で、排他的であることは間違いない。それに利己主義がそこには蔓延している。自らの利を追求する場を、ただボランタリーに移すだけで、やっていることはマネタリー経済と何も変わらない。
むしろ、純度の低い魂が作り上げる共同体程、個人の身を、そして精神を疲弊させ削ぐものはないと私は考えている。
ボランタリー経済という隠れ蓑に隠れて、多くの人は、そこで、自分の身ぐるみをはがされて、素っ裸にされてしまう。そうなると、どうにもできなくなり、結果、そのボランタリー経済圏に依存する道しかなくなる。それが、強いそのコミュニテイーへの信仰となれば、今この世界にあふれているボランタリー経済とは、ただの恐ろしさしか生まないことになる。
ボランタリー経済という名を使って、多くの人が誰かの魂を食らい、そしてその者を自分の懐に入れ、わがものにしようとしている。今というのは、そんな時代なのかもしれない。
だからこそ、今一度、ボランタリー経済について、詳しく学ぶ必要があると思ったりする今日この頃。