変わらないもの
「お世話になりました。・・・ありがとう」
もはや誰も住んでいない実家を去る直前、閉じられた仏壇の横をすり抜け、和室の掃き出し窓から庭に出て、振り返って自室のあった2階を見上げた時、わたしの口の中からこの言葉がこぼれて宙を舞った。
かつて芝生が敷かれていた庭は、今はもう雑草防止のコンクリートで固められていて、スリッパの下でざりざりした感触がする。それでも、芝生の上に広げ水しぶきをあげて遊んだビニールプール、ステテコ姿でゴルフの素振りをする祖父の姿、小学校の宿題で庭木に水やりをしていた時に見ていた夏の夕暮れ空、隣家との目隠しに立ち並ぶ植木の手前に祖母がちょこんと植えたミニトマトの青い実、夏祭りで掬って初めて飼った金魚を埋めたこんもりとした土の形がオーバーラップして、そして消えた。
18才の時。変わらないこの町にわたしの未来はない。そう思って東京に進学した。それから17年。徒歩ではとても行けない距離の最寄り駅まで、いつも車で迎えに来てくれた祖父は、7年前にこの世を去った。祖母は認知症になって施設で暮らしている。東京で働く両親は定期的に祖母の施設とこの家を訪ねていたが、新型感染症の流行でこの2年はすっかり足が遠のき、値段がつくうちに売ることにしたと、正月に両親と食事をした時に聞かされた。わたしは母親の目をまっすぐに見て「その方がいい」と頷いた。いつかそういう時がくることはわかっていた。覚悟はとっくにできていたはずだった。
遠くでバスの排気音がして、遠ざかる。ふと顔を上げると冬の午後の柔らかな陽射しはすっかり衰えて、もう夕暮れに差し掛かっている。30分後の次のバスには絶対乗って、2時間以内に新幹線に乗らないと、日付が変わる前に東京の自宅に帰れない。荷物まだ全部見きれてないのに。
急いで和室に上がったら、またざりざりした感触がする。先を急ごうとする足を止めてスリッパを脱ぎ、庭に振り返ってぱんぱんと叩く。あたりはすっかり静まり返っていて、ただその音だけが、ずっとそこで反響しているような気がした。