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格好つけて生きていたい。繊細さなんてないふりで。

やってしまった。noteのネタを裏紙に書き散らして、そのままデスクにおいて席を離れたら、淹れたての珈琲が添えるように置かれていた。

「生まれ変わっても私が良い」とか「ダメだと思っていた私だって、間違いなく私自身」とか書き殴られた紙の隣で湯気を立てるカップ。

見えたよね、読んじゃったよね、そのつもりなくても読めちゃうよね。


10回死ねる。

どうして裏返さずに席を立っちゃったんだ私……!
ああ、穴があったら埋まりたい。

心のことをリアルに語るのは、若者だけに許された特権のような気がするよねって。

学生の頃って、どうしてあんなに真剣に人生について語れたんだろう。そして、大人になった途端、どうして私たちはぴたりと口をつぐむんだろう。

政治や世相を語るのは良い。
でも生きる事の意味なんて言葉を口にするのは、大人になり切れていない青さの証のようで、誰かが発するのを耳にするのも気恥ずかしい。
(なぜかnoteでなら、どんなに熱い語りでも許せてしまうの不思議だよね)

大人になるにつれ、この世界には自分の想いだけではどうにもならない事が沢山あるのだと気付いていく。愛と勇気と平等だけでは資本主義を渡れない。社会主義の世界だって平等だから愛に溢れているわけではない。

どうにもならない事とどうにもならない思いの狭間で、大切にしたいものに優先順位をつけて、バランスを取りながら生きていく。それが大人になるって事なんだ、きっと。


自分の内側に溢れる想いを誰彼かまわずぶちまいていたら、現実ではただの迷惑な人。仕事の打ち合わせてしている時に、「仕事の本質とは」とか「愛とは」なんて言い出されたら、逆の立場なら大迷惑。

だからきっと、大人になった人は口を紡ぐのだ。
世界と自分のバランスを取るために。周りの人とのバランスを取るために。

けれどそれは、想いが無いという事ではなくて。背中で語れる大人にきっとなりたいんだな。

大人になるほどに、人は想いを胸に秘める。家族のために粛々と仕事を続ける父親たち。会社を守るために、時に冷徹だと批判される決定をする上役たち。彼らの裡にも想いはある。ただ言葉にしないだけだ。

多分私は、あんな風な生き方に憧れているのだ。
誰に気付かれずとも、大切な思いを抱えて、普通に生きていく事ができる大人たちに。とっくに大人と言われる年齢に達しているにも関わらず。

人の言葉の裏をいちいち感じ取る繊細さとか、色んな人が色んな立場で色んなことを考えているであろうことを想像しては立ちすくんでしまう気持ちとか、そんなものは無かった振りで。

格好つけて生きていたい。昔読んだ小説の中で、気持ちを紫煙に語らせて、偽悪的に振る舞っていたあの人みたいに。

………と、だらだら書いてみたけれど。
最後にふと思いついたこと。
noteの下書きメモを放置しない事は、反応に困る周りの人への思いやりかもしれないね。


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