個人が自分で自浄作用を働かせるのは容易でない
個人にしろ集団にしろ自浄作用が働く場合とそうでない場合がある。
自制や自省を通じ思考や言動を省みて適切に軌道修正できる人もいれば、
明らかな過ちだったり少なからず責任があると思われる場面でも、
表面的にはともかく本心では絶対に軌道修正しない人もいる。
ある程度の人が集まると外圧がかかる前に内部できちんと適切に対処し、
軌道修正できるかそれとも騒ぎになったりで崩壊間近、崩壊するまで、
軌道修正できないかの違いが規模が大きいだけ顕著になってくる。
違いは後々の言動や方向性を見れば大体わかる、
前者は何かしら改善が見られますが後者は同じことを繰り返す。
ではなぜ違いが出るのか?自浄が働くにはどんな要素が必要なのか?
異なる思考傾向が働き適切な評価を下せるか否かの違いだと考えます。
と言うのも、まず自浄するには何かしら評価を下す必要がある。
例えば嘘には良い嘘と悪い嘘があると言われるように、
一概に全ての嘘が悪いと必ずしも考えられているわけではない。
何が良くて悪いのか、それは異なる性質の嘘を相対化することに加え、
何かしらの評価基準を元にして定める必要があるわけです。
異なる2つの要素がありそれを相対化してはじめて人は何かを評価できる、
評価したうえで自分が、自集団が悪い方向へ進んでいると受け入れた時、
人や集団は自浄作用によって軌道修正することが可能になる。
要素の相対化、評価、評価の受容の順序を経て自浄は起こる。
逆を言えばこの過程のどこかで次に進むのにつまずいた時に、
自浄が働かず漫然と悪い方へと進み続けることで、
最終的に外圧などによって否応なく軌道修正を強いられるでしょう。
それにさえ失敗すると行きつくところまで行きついて、
個人であれ集団であれ何かしら大きな悪影響が出るに至る。
では、段階に応じてなぜつまずくかを1つずつ紐解いてみましょう。
まず要素の相対化について。
個人的な所感ですが大抵の自浄の失敗はこの時点ですでにつまづいている、
要素の相対化はそれなりに訓練された思考が可能にするものだからです。
と言うのも、前提として人には意識と無意識、2つの思考傾向があり、
高い思考力とはこの2つの思考傾向のバランスが適切である時、
はじめて発揮される土台が整うということを知っておく必要がある。
この思考を僕は意識と無意識と呼び分けてますが言い方は色々あります。
意識的な思考傾向は理性などと呼ばれることが多い、
能動的、自覚的、論理的な過程を経て展開される思考のこと。
対して無意識的な思考傾向は感情など衝動的な思考を指す、
ある刺激に対して反射的な反応を発露しそこから展開していく。
前者は結果へと向かう思考であり後者は結果ありきの思考だとも言える、
未来などを見据えて何かをじっくり模索していくのが意識であり、
ある刺激(きっかけ)に反射的な反応を発露しまず決定するのが無意識。
この2つの思考傾向の特徴を把握しておくと相対化するためには、
意識的な思考がきちんと働き自身に対して十分な影響を与えられる、
一度、立ち止まれる能動的な自制心が必要なのがわかるでしょう。
反射的な反応によって思考する無意識は何かを発露した瞬間に、
それ以上でも以下でもない何かを結果として決定してしまう。
これは、(感情的な)苦しみは人それぞれ、
形や大きさが違うみたいな言説がわかりやすい。
例えば日本で貧乏で苦しいと感じている人がいたとしましょう。
その人の感情的な主観においてその苦しみは真実であり、
それ以上でも以下でもない絶対の基準としてある。
それを第三者が客観的にもっと苦しんでいる人がいる、
発展途上国ではそもそも成人まで生きることが難しい国もあるとか。
日本は医療や治安が高いレベルで整備されてるのに加え、
生活保護などいざという時のセーフティーネットもあるだけ、
遥かにましだなどと言ったとしても。
つまりは貧困の程度の差を相対化によって評価したとしても、
無意識の思考に響くことはない。
繰り返しになりますが無意識は反射的な反応によって思考するのであり、
故にそれ以上も以下もない絶対の基準が働いた時点で決定されるからです。
一度決定された基準は自身が発展途上国レベルの貧困に身を置くなど、
新しい基準が無意識に形作られるほどの何かがあるか。
あるいは何らかの要因、例えば解釈の変化と納得感などにより、
苦しみなどにつながる前提自体が別の刺激となったりなど。
それなりに大きな刺激やきっかけがない限り覆らないでしょう。
苦しいなど主に感情から生まれる主観的な真実は変えがたい、
しかし人には無意識とは別に意識というもう1つの思考傾向がる。
先に話したように意識はじっくり物事を見定めて論理的に思考展開する、
様々な要因を精査したり解釈したりしながら様々な可能性、
選択肢を見出すことができます。
それにより時に感情を自制できる、そうあるものではなく、
そうあるべきという基準に従って無意識を超克できる。
これがつまりは自浄作用の正体だと言ってもいいでしょう。
個人が自浄できるのは意識が無意識の反射的な反応に対し、
別の視点や選択肢を自ら意識的に模索しそれを実際に、
言動に反映させられるだけの意思を構築ができるが故。
問題なのはそれが言うほど簡単でないということ、
基本的に意識より無意識の方が影響力が上なためです。
無意識は反射的な反応という思考の性質上、極めて思考速度が速い。
意識はじっくり考えてある基準等を模索していくのに対し、
無意識はまず瞬間的に基準を決定しそれを絶対とする。
つまり意識は真っ暗闇の荒野の中であるかもわからない、
何らかの答えやそこに至る道を1から構築しているようなもの。
無意識はどんな状況や環境であれとりあえずゴールは決まっている、
後はどんな道でも方法でもいいからそこに至ればそれで良い。
正当化、論点ずらし、逆切れ、打ち切り、事実湾曲、ストレートな嘘、
使えるのであれば暴言暴力、資金力、権力等々による押し付け。
こういった手法を使うことに躊躇がない人がいたとすれば、
それはすでにある決められた基準(ゴール)があるからであり、
それは以上でも以下でもない真実であるからでしょう。
そこに至りさえすればいいというのが無意識の思考であり、
故にゼロから模索する意識的な思考速度は大抵追いつけない、
追いつけたとしてもすでに手遅れな場合も多い。
加えて意識は持続力がなく働くほどに鈍くなっていきますし、
さらには筋肉と同じで適切な負荷を与え訓練しないと、
どんどん劣化して影響力が落ちていく。
結果、様々な可能性、選択肢、それ故の相対化による評価が起きない、
意識的な思考が無意識の思考に流され影響力を発揮できないのですね。
ですから個人が自身に対して自浄作用を働かせるのは相当難しい、
それなりに安定した無意識と訓練された意識がバランスを取って、
互いに影響を与え合える状態でなければ実現しない。
どれだけ激しい衝動性を持った無意識であってもそれを制し、
超克できるだけの圧倒的に強固な意識を鍛え身につけるのは、
不可能とは言いませんが人生をかける大仕事ぐらいの覚悟はいるでしょう。
これを考えれば集団として自浄作用を働かせるのは、
個人としてやるよりかは遥かに容易だと言える。
仮に無意識優勢な人が集まっていたとしても様々な基準を持つ人が、
それぞれの真実に向けて引っ張り合えば少なくとも自制は可能。
無意識は反射的、衝動的ですがそれ故に刹那的でもあるので、
一度立ち止まれれば冷めて軌道修正する余地も生まれやすいのです。
逆を言えば集団として一切の自浄作用、自制すら働かない、
そんな状態になっていたとしたらそれは相当歪み淀んでいる。
集団全体として1つの真実に例え現実と激しく衝突したとしても、
漫然と向かい続けるほどに自我がない状態。
例えば宗教など1つの思想を盲目に信じるようなもの。
あるいはあらゆる真実を捻じ曲げられるほどの圧倒的な力による抑圧、
黒いカラスも白にできるような存在による独裁的な統治か。
何であれ健全ではない、それが社会に影響を与えないうちはいいですが、
集団は大きくなればなるほどに否が応でも何かと接点を持つもので、
基準同士、相容れないなら何かしらの衝突が起きるでしょう。
と、話が逸れましたがざっくりまとめると自浄作用とは、
複数の要素の相対的な評価が前提として必要で、
だけど思考の性質上、個人ではそれが難しい。
だから最初の段階でつまづくことが多いということです。
逆を言えばここを超えられるなら問題はシンプルになっていく。
2つめの実際に評価する段階で必要なのは知識や情報、経験、
様々な視点を見出せる豊富な引き出し。
自制し可能性や選択肢を見出せる段階でつまづく場合、
それは単純に視野の狭さによる評価基準の少なさ故でその原因は、
無意識と意識のバランスが取れてるならインプット不足しかない。
様々なことを知り、集め、実際に体験できるならすることで、
多くの考え方があることを身に染みて感じることができれば、
意識はそれを元により良い道を模索できるようになるでしょう。
そして最後、評価の受容に至る。
これは単純に今の自分の現実をありのまま受け入れられるか。
自浄とは端的に言えば今の自分は濁っていると認めること、
要素の相対化の段階ではそもそもそれ以上でも以下でもない、
無意識に偏った思考ゆえに濁りという概念がなかった。
それを乗り越えて様々なインプットを通じて多くの透き通った、
そのように思える何かを見出すことによって、
相対的に自らが濁っていることを知る。
それを受け入れられるか否かは苦しみを超克したいと思える、
強い意思を持てるか否かによるでしょう。
思考の性質などお話してきましたが身も蓋もないことを言えば、
自浄とは自浄したいと思える心の動きによってしか実現しない。
以上のような思考の性質や様々な考え方を知ったうえで、
今の自分に濁りを感じてそれを何とかしたいと思うか?
それだけの話。
そもそも浄めるという表現がある種の基準と相対化した時、
相手を濁ったものだと断じる意味合いを帯びている。
なので滅多なことで相手に自浄という言葉を投げかけるのは、
ほぼ確実に敵対関係を生むのでやめた方が良いでしょう。
それでもやらなければならないと思うほどに濁って見えるのなら、
それ相応の覚悟でやらないと後悔する可能性が高い。
加えて言えばそもそも自浄作用が働く人はあまり外の状態を気にしない、
と言うか外からの影響に左右されず良い意味でマイペースになれる。
自浄とは文字通り自らを浄める行為でありその本質は、
お話してきたように自らを制し省みるということの終着点である。
故に自浄作用が働く人は外からの影響に心乱されることがあまりない、
外を変えるぐらいならさっさと自分が適応すれば良いと考え、
自分の意思で軌道修正できるのでよほど厳しい環境等でもない限り。
自分の道は自分で切り開ける、切り開けるから環境等が良くなって、
それがまた新しくより良いと思える道を切り開く助けとなる。
そんな好循環が実現する。
逆に自浄作用が働かないとまず意識的な思考傾向がどんどん劣化衰退する、
自浄しないとはつまり今の自分を正当化するということであり、
正当化は無意識の傾向を意識が無条件に受け入れるということを意味する。
先に話しましたが意識は使わなければ劣化し衰えていくもので、
無条件に受け入れ続けるうちに使われなくなった意識は、
最終的に自身に対する一切の影響力を失うことで。
無意識優勢の状態から抜け出せなくなりただひたすら、
環境等が許す間は自身の真実を押しつけるようになるでしょう。
それはほぼ確実に他者、社会、現実と衝突することで、
疲弊やさらなる心の乱れを生み実生活を荒ませる。
それがまた無意識の負の反応を誘発し過激化させさらなる衝突を招きと、
悪循環に陥る可能性が極めて高い。
無意識の思考が運よく時代や環境と合致していれば自然に、
ありのままで大きなことを成し遂げられることもあるでしょうが、
大抵の場合は少なからず軋轢や摩擦を生むため。
現実を歩むうえで自浄するか否かの選択を自覚的に、
あるいはいつの間にか無自覚の内に突きつけられているもの。
その時、どのような選択をするのかが後の思考の働き方や言動、
引いてはそれによって引き起こされる結果を大きく左右すると思う。
であればせめて自覚的に選びたい、どんな可能性があるか把握したうえで、
どのような方向に覚悟を持って進んで行くか。
考えてみるのが大事に思うというお話です。
では、今回はここまでです。
ありがとうございました。