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#171 子育て終わり、なんて偉そうに言ったものの‥‥
イギリスの冬はこんな日が多いかもしれない‥‥
朝から横殴りの雨が降り、車のワイパーの設定は中以上でないと前がよく見えない。
夫はこんな雨の中、大きなモーターバイクに跨って行ってしまった。
残った次男は家を出る時刻が迫っているのになんだか煮え切らない。
息子は先週から、地元の特別支援学校で働き始めたのだが、さっそく学校内で流行っている風邪をもらってきたらしい。新しく働き始めた人が受ける洗礼のようなものだ。
「行くの、行かないの?」つい口調が角々しくなる。
「いや、行くけど‥‥」
行くんかい。だけど、風邪でぼうっとしている息子、出勤までのわずかな時間で庭の小屋から自転車を出して雨の中に出て行く姿がまったく想像できないのだ。
そんなわけで、息子を車で送って、今帰って来た。こんな日はやはり同じことを考える人が殺到するのだろう‥‥今朝は普段なら送って戻るのに10分で済む道のりに30分かかってしまった。
よくお聞きになる話かもしれないが、イギリス人は傘をささない。
本当に誰もささないので、小雨なら逆に傘をさすのが軟弱な感じがしてしまうほどだ。
なら雨の強い日はどうか?
風があるので雨が真っすぐ地面と90度に降ってこないということもあるし、風そのものが強くて傘が壊れるというのもあるかもしれない。
道中、濡れそぼって歩いている学生たちも見かけた。
これを書きながら窓の外に目をやると、踊るように揺れる木々や小刻みに全身の葉を揺らす木々と45度に吹きすさぶ雨。ごうごうという音とともに‥‥
私は基本、家にいて、車の運転もできる。だけど、徒歩なら35分かかる息子の出勤に車を出そうと思ったことはない。今朝ばかりは息子の体調と雨の強さとのコンビネーションで『送って行こう』と私が判断したのだ。
息子を乗せた車のなかで、毎日子供を送り迎えするタクシーママたちを想った。
イギリスでは基本5~6年生になるまでは親が学校の送り迎えをする。子どもが独りで登下校するようになってから大学で家を離れるまでの間、私が雨の日に車を出したのはおそらく5本の指で数えられるほどだっただろう。
傘をささないので、当然リュックサックやコートはびしょ濡れになる。濡れたままロッカーに入れれば中も濡れるだろう。不便極まりない。
ただ、世の中とは思い通りにならないことだらけだ。思い通りにならない経験のなかで工夫や準備もしなければならなくなるだろう。
雨の日に先回りして「乗せてってあげる」とは言わなかったのは、子どものものごとを考える力を私が奪ってはいけないと思っていたからだ。
ありがたいことに3人の子どもたちの学校は皆、中高一貫で家から徒歩20分。隣町から電車やバスで、また交通の便の悪い場所から家族が毎日車で送り迎えする子どもたちもとても多かった。
きっとそれぞれがそれぞれの登下校体験を持っていることだろう。
厳しい親ではなかったけれど、私は子どもに甘くはなかった。自分の責任は自分で果たせ、と言わんばかりに。
私の子育ては間違っていたのかな‥‥
そんなふうに感じる瞬間がある。子どもたちが大人になってからこういう瞬間をよく迎えるようになった。
実は献身的なおかあさんを見てちょっと鼻で笑うようなところが私にはあったかもしれない。だけど、今になって感じずにはいられないのだ。絶対的に甘えられる親を持っていたら、包み込んでもらっているという大きな安心感が育つのではないか、と。
献身的で、絶対的になんでもしてくれた親がいつか弱った時に、『あんなにしてもらったのだから‥‥』と、子どもがその愛情に報いないではいられなくなるかもしれない‥‥
そう思ってしまうのだ。
ああ、うちの子たちよ。君たちはこんな母を許して、弱った時に助けてくれるんだろうかな‥‥
雨と風の音を聞きながら、
中庸ってなんだ?適切ってなんだ?と、子育てが終わったのに未だちっともわかっちゃいない自分を想い、
『やっちまった感』と『分かってくれたんじゃないかという期待』の狭間で
今日も揺れている‥‥
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