#35 娘よ。あのとき抱きしめてやれずにごめんね。(改稿)
我が家に最初に授かったのは女の子だった。
なぜか根拠もなく男の子だと思っていた私は、夫と男の子の名前を考えていた。
もともと『子づくり』とか『産み分け』とかいう言葉には違和感しかなかった。
命は与えていただくもので、自分でコントロールできることではないと思っているからだ。男の子か女の子かも神様が決めて下さる・・・あるいは子どもの魂のほうがうちの子になることを決めて、来てくれるのではないかという考えにも近い気がしている。
赤ちゃんの性別を、生まれるまで待てないのはちょっと夢のない感じもするが、お腹のなかの存在はすでに家族の一員だった。そしたら、たとえまだなまえはなくてもやっぱり男の子なのか女の子なのかは知っておくのが自然な気がしてしまった。
産院の定期健診で赤ちゃんの性別を訊けばわかる時期がきて、いつも笑顔の先生がスキャンを見ながら一言、「おんなのこですよ」と。
それまで男の子のつもりでいたことも忘れて、夫と大喜びしたものだ。
ありがたいことに娘は健康に育ち、一歳半で114語 (うち英語は20語) を話した。しかも「おじーちゃん、バイバイってったね (言ったね) 」なんていう三語文のバリエーションもあった。母子手帳には、私がつい面白くて書き留めた「巴奈 (ハナ) 語録」が残されている。
一歳半検診は「2語以上の意味のある話しことばを言えればよい」という発達基準がある。その時に、初めて記録して数えてみたのだ。
毎日が発見の連続。
娘と一緒に出歩けば『可愛いねぇ』と食べ物を貰う。情緒が豊かで、時々こちらが膝を打ちたくなるような、面白いことを言う。夫も私も、彼女の愛らしさに夢中だった。
娘が二歳半で、弟が生まれた時、初めて出会った赤ん坊を叩いたり、つねったりするので一緒にしておけなかった。娘の中にはじめて、わけのわからないきもちが湧いてきて言葉より先に手が出てしまったのだろう。
皆で相談した結果、しばらく娘と弟の甲斐を離すために、ばあちゃんのところでホームステイをさせることに。なぜなら私の母と娘は、私が密かに『魂の二卵性双生児?』と呼ぶほどに、一緒に居るだけで気持ちが通じ合っていたからだ。
娘にとってそこは『おおじいちゃん・おおばあちゃん・じいちゃん・ばあちゃんの住むおうち』だ。同じ敷地に住んでるいとこの亮太も昼間は一緒に過ごす。
ばあちゃんが一歳半の亮太をおんぶする横で、巴奈用に縫ってもらったおぶいひもでモンチッチ人形をおぶう写真が残っている。そのピースサインの娘の楽しそうなことと言ったらない。年寄りだらけの家というのは包容力が格段に違う。
余談だが、年寄りと幼児を一緒にすると、年寄りは若返り、幼児たちはIQが上がるのではないかと私は考えている。そんな最高な園 (老人ホーム X 幼稚園) は私の憧れと夢の国だ。実現したら自分が入りたい‥‥
私たちの心配なんてどこ吹く風、約束の二週間後も、電話口で「まだばあちゃんのとこにおる」とさらりと宣言されてしまった。
はつらつとした娘は、とても良いお姉さんぶりを発揮してくれた。それでも、時々私たちの視線が甲斐の愛らしさに集まると、ピチャっと弟を叩いてしまうこともあった。それもそうだろう、自分中心で回っていた世界に現れた小さな存在は愛おしくも悩ましいものだったに違いない・・・
一般的に男の子のほうが言葉が遅いというが、おしゃべりな娘のおかげで、息子もとても上手におしゃべりしたし、方言とイントネーションは完璧だった。
そんな彼らと、同士のように生きていた私に訪れたイギリスへの移住。夫がとうとう「自分の国に帰りたい」と言ったのだ。
私にとってそれは「青天の霹靂」とは言わないが「とうとう来てしまった」という招かれざる宣告だった。
一方で、子どもたちはというと、生活の拠点が違う国に移るということがどれだけ理解できただろう?イギリスという馴染みのない場所は、彼らにはどんなふうに映ったことだろう‥‥
1999年の春のこと。私たちは四人でひょいと飛行機に乗ってやって来た。まるでちょいとグランマに会いに来るよな身軽さで‥‥
イギリスでは夫の家族に助けられながら、まず、住む家の手配に続いて子どもたちの学校を申し込むところから始まった。
当時五歳だった娘はイギリスでプライマリースクールと呼ばれる小学校のレセプションクラスに編入することになる。レセプションというのは、Year 1 から Year 6 という六年間の、前段階となる一年間のことである。
日本であれば、あと一年は幼稚園に通ったはずなのに、娘は五歳でいきなりポンと小学校に入れられてしまった。
イギリスに来て、私がびっくりしたのは、女性がハッキリものを言うことだった。今でこそそれは普通のことだが、日本を離れて間もなかった私には、それがとてもきつく感じられた。
大人の私が「怖い」と思ったのだ。日本の幼稚園での物腰の優しい先生方しか知らない娘が、学校で何を感じていたか‥‥それは私の想像を超えるものだったかもしれない。
それでも娘は一度も嫌がることなく学校に通い、学校から戻ると、ずっと弟と遊んで過ごしてた。
時々何をしているのか覗いたら、三歳の弟に “Ok, repeat after me!” (私のあとをくり返すのよ!) と指示して、その日学校で覚えた英語のことばを教えていた。
あれはイギリスに渡って二か月が過ぎた頃のこと。
一日中ノイズのようにあふれていた彼らの会話に、ふと耳を澄ませてみた。すると、なんということか、私がずっと聞いていたあのイントネーション、あの方言が・・・それどころか、もはや彼らはひとことの日本語もしゃべっていなかったのだ。
まさか!と思い、粘り強く待ってみたけれど、娘のほうはまるで意地でも日本語を使うまいとするかのようだった。普通ははずみで日本語が混ざってしまうのが自然なのに・・・
その時の私の言い表しようのない複雑な心情は、今思い返しても胸がつまる。
私はひとり愕然と、台所で涙を流した。
時を同じくして、大好きだったばあちゃんから、初めての国際電話がかかった。
その時、驚いたことに、娘はかたくなにその電話に出ることを拒んだのだ。
母はきっとどんなにか寂しかっただろう・・・という想いでいっぱいになり、私は電話のあとで娘のことを叱ってしまった。
その時だった、イギリスに来て初めて彼女の涙を見たのは。
“I don’t miss Japan. I don’t want anything to do with Japan!” (日本なんか恋しくない。日本なんか関係ない!)
しゃくり上げて言った娘の言葉に、今度は私が泣く番だった。
あの時、自分を襲った感情に浸ることしかできなかった未熟な私を許してほしい。
親でありながら‥‥
もしも私が一度だけ過去に戻れるなら、どれだけあの日に帰って娘を抱きしめてやりたいことだろう‥‥
誰よりもまるごと日本を失ないながら、失った意味も分からずにいた娘。一番運命に流されながら、弟を全力で守っていたのも彼女ではなかったか。
息子がのほほんと育ってくれたのも、娘のおかげだったのじゃなかったか。
移住後しばらく、私はよく泣いた。それに比べて、泣き言ひとつ言わなかった娘には、感謝してもしきれない。
娘は今、独立してフランスに住んでいる。口数が少なく、自己主張が下手だが、一本芯が通っていて、居るだけで場の空気が柔らかくなる、そんな女性になった。
あの時、ばあちゃんとどうしても話せなかったのは、理解不能な感情が込み上げたからなんだよね。
理不尽で悲しくて‥‥求めても得られない日本。そんなきもちを自分から断ち切ることでしか、自分を支えられなかったのだね。
娘は日本でのことも移住した当時の気持ちも憶えていないと言う。
正直に言えば、夫と私には、ある悔いがずっと心から消えなかった。
幼かった娘の天真爛漫さを私たちが奪ったのではないか‥‥ということだ。
あの日にはもう戻れないけれど、
彼女の居る場所へも飛んでいけないけれど、
私は私の心で全力で娘を抱きしめる。
ありがとう
✅この記事は私の最初に投稿した記事 (#1) を改稿したものです。私にとっては 渾身の内容のつもりだったのですが、一番人気のない記事です。一か月noteに投稿し続けてみて、表現方法を変えて再チャレンジしてみます。
よほどお時間のある方は読み比べて、ご意見などいただけたら勉強になります。
元投稿はこちら ↓ できれば、#2 のほうを忘れずに読んでくださると嬉しいです。
そして、翌日の気づき ↓ がもたらされるのです。
ここまでお読みくださりありがとうございました。