#27 何も言わない墓地が、語ってくれること
ロックダウン中、一日一回の散歩は、魔の階段に続く魔の坂を上り、だれきっている脚の筋肉に喝を入れることから始まる。『魔』というのは、それだけ息切れのする傾斜が続くからである。今となっては私のジムのようなもので、感謝すらしている。
上り切ったところで選択肢ができるが、最近はなぜかひとりで墓地を歩くのが好きだ。
ふつう墓地にはあまり人がいない。見かけるのはジョギングをしている人。入り口が二つあるので、近道として墓地を突っ切って歩く人もいる。
自分がもしジョギングをしたなら、車の運転手や後ろを歩く人は、太ももの揺れ具合を見て、『カウチポテトが走ってる』と思うだろう・・・そんな自意識過剰な自分は公道で走る勇気はない。
だから、いつか・・・いつかこの墓地でならひとりジョギング大会をやってみたいと思っている。
この墓地には、幼くしてこの世を去った魂たちのための一角がある。それぞれのお墓は花壇のように囲まれて、そこには天使や虹やテディベア、そしてソーラーパネルで夜には灯りに囲まれるようなしかけもある。
初めてこの場所を見た時に、幼い子どもを失うという家族の悲しみを想い、直視できない自分がいた。
幼い我が子を見送らなければならなかった親御さんは、きっとここを訪れては、色とりどりの工夫をして、その魂を慰めることで、自分の心と向き合っているのかもしれない。
何度もこの墓地内を歩いたが、そんなことをいつも考えていた。
今はデイジーとバターカップとプリムローズが芝の色に映え、その鮮やかな白と黄色が、心を和ませてくれる。
つい最近までなかった彩り。春になれば春の色がそこにあり、
毎年同じ時期に、人知れず咲き乱れるだけ‥‥
1852年からずっと、塀の外で起きていることとはまるで縁のない、静かな静かな世界がここにある。
あるぽかぽかと暖かい日。おさなごたちの墓地では、
春の風を受けて色とりどりの風車がクルクル回っていた。キラキラした装飾が陽の明るさに呼応して、なんだか子どもたちの笑い声が聞こえてくるような錯覚を持った。
この墓地内にひとつある木のベンチは、この子どもたちの夢の園を見わたすように置かれている。
最近は暖かくなってきたので、このベンチに座ることも私の日課になった。
こんな歌を思い出した。
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
私も、子どもたちがまだそこに心を残し、両親が訪ねてくれるのを待っているとは思えない。
こうして訪ねて来ては、子どもたちとお話をするのは、残された側の大切な癒しへのプロセスなのだろうと。
子どもたちは、きっと天の花園で羽を広げて伸び伸びと舞い、ケラケラと笑っていることだろう。
光に包まれて‥‥
親の想い、家族の心がいっぱい詰まった墓地に居て、変わらない自然の営みと、
『時』というものに想いを馳せる。