#29 君のジャパニーズアクセントはチャーミング
私が初めてネイティヴスピーカーから英語を教わったのは、二十三歳の時だ。そうなのだ、私はその歳まで本物の発音を生で聞いたことのなかった世代である。
中一で初めて英語の授業が始まる。初めて耳にしたのが「ずんずろー」先生の発音だった。準次郎先生は言葉がとても訛っていた。もう説明の必要もない、私の英語とのお付き合いの始まり。
英語が好きだと思ったことは一度もなかったし、実用的なものという認識すらなかったと思う。私と英語はいつもそんな関係だった。
そんな私に、まるで天から『イギリスに行こう』という言葉が降ってきたのが二十三歳のこと。当時「看護婦寮」で掃除機をかけていた、忘れられない瞬間だった。いきなり英語の勉強が始まったのはそこからだ。
思えば、二十五歳で学生になりイギリスに来た頃は、伝えたい気持ちと、それを全部言葉にできないもどかしさばかりだった。
そんな私がイギリスに語学留学した一年間で、ケンブリッジ英検のFirst Certificat (ファーストサティフィケイト) に受かることができた。
机で勉強した記憶よりも、いつも仲間に囲まれていたことが一番大きかったと思う。
この一年間のことは、別の機会に書いてみたい。
時は流れて、私も家族を持った。日本から始まった小さな家族はイギリスに移住してきた。
子ども達が小さい間は、車ごとフェリーで渡れるフランスで、キャンプしながら旅することが、長い夏休みの恒例だった。
イギリス人の夫はカタコトのフランス語を話すことに躊躇がない。英語でなくフランス語で話しかけると、現地の人が必ず好意的なことも肌で感じることができた。
道を訊くときに「あの~ Monsieur、 すみません S'il vous plait…」
夫の脳が外国語モードに入ると、母国語でない、日・仏が入り混じる。
子どもたちは「またダディがフランスの人に日本語話してる」と可笑しがっていたけれど、相手の言葉を話そうとする姿勢も同時に学んだと思う。
そんな経験から、私もフランス語が話したい!と、コミュニティ講座のフランス語教室に参加したことがある。
フランス語の数字のしくみ・・・
あれはいったいなんだろう・・・
その上、いくら発音しても家人から「違う!」と言われ、私じゃ無理なんだとだんだん貝になる。
・・・結論を言えば、フランス語は難しいとわかった分だけ賢くなって終わったというオチだ。
その時の自分といえば、フランス語のアクセントを身に着けたくて、先生の相当クセのあるフランス訛りの英語さえも、とても魅力的に思えた。
私の立ち位置ひとつで、ネガティヴともなり得る現象が羨望の対象になったのだ。
そんなことが伏線としてあったことで、
❶「君のジャパニーズアクセントはチャーミングなんだよ」と言われた時、なぜか素直に受け容れようと思った。
これは学生として出会った三十年前からお付き合いのあるカレッジの先生の言葉だ。
「だから自分を卑下しているなんてもったいないよ」そう伝える先生の気持ちに嘘がないことを私は知っている。
彼は若い頃に日本人女性と恋愛をしたのに、彼女を引き留める勇気がなかったことをずっと悔やんできたのだ。
好意的に見るものはチャーミングになり、逆に批判的に感じていることは不快に聞こえるのは普通にあることだ。アクセントはネイティブとは違うという事実があるだけで、正しいも間違いもない・・・
だから私は、自分の英語を聞いた人がどう感じようと、その感じ方は相手が決めるもので、私の問題じゃないと理解した。
❷ 日本の大学で教えるイギリス人の友人は、日本の学生たちが話す英語を日常的に聞いている。
その彼が私の英語を聞いて「ミズカはもうデヴォンアクセントで話している」と言ったことがあった。
日本人発音のデヴォン訛りって・・・(笑)
これも、言われた時私は「げっ」と思ったが、考えようでは、それだけイギリスでの生活に順応している結果だと自分をねぎらえばいいことだ。
これだって私の個性だ。
❸ YouTubeで芸能人の英語を批評するチャンネルを結構いくつも観たことがある。芸能人がプレスカンファレンスで、あるいは外国人インタビュアーの質問に答えた映像を再生し、その発音や文法を指摘して視聴数を上げている。
どうも私たちは人の英語の発音の良し悪しが気になるもののようだ。
伝わる話ができればすごいじゃないか。
指摘する人は、完璧を見つけるまで指摘するだろうし、
自分を卑下すれば、完璧になるまでいつまでも卑下するしかないのだ。
イギリス英語に耳が慣れた私は、ハリウッド映画を英語字幕付きで観ている。耳だけでは聞き取れない会話を、文字が一瞬で補ってくれる力は偉大だ。
「字幕なしで洋画が観たい」という声をよく耳にするが、字幕があったってなくったって、それが映画を楽しむこと以上に大切だという気がしない。
私の場合、ハリウッドどころではなく、イギリスのなかでも全く理解できない訛りもあることに驚いてしまう。
スコットランド、アイルランドの訛りもすごいのだが、イングランド内でも、北部、例えばリバプールなんて本当に何を言っているのかわからない。
まあにこやかにそれなりの相槌を打って、別れたあと、夫に「今なんて言ってた?」と訊くと、夫もまったく分かってなかったということもある。
日本では、ブリティッシュイングリッシュ=クィーンズイングリッシュと言われていた。でもブリティッシュだから、と召かれた教師がすごいスコティッシュアクセントだったなんて話、雇い主が知ってたかどうか訊いてみたい気がする。
イギリス人は地方訛りを悪びれる風もない。
日本も、私が十八歳で東京に出た頃に比べると、今では方言は個性と胸を張れる時代だと思う。
この多様性の時代に、それぞれに自分の言語・文化背景を抱きしめながら、共通の言語で想いを伝えられることが私は嬉しい。
世界中で、その地の文化をリスペクトしながら、カタコトでも話そうと試みるのは大事だと思う。
そしていざとなれば、誰かが英語で渡し船になってくれるものだ。
一昨年、北京の空港で、空港係員にどこに行けばいいのか尋ねた時に、「%$#>&!」としか書けないくらい、何を言われているのかさっぱりわからない。
何度も何度も繰り返してくれるけれど、こちらが途方に暮れていた時に、
ちょっと前に言葉を交わしたオーストラリア人が「Gate 12?」と、横から助け舟を出してくれた。
「Do you mean gate 12?」と私が言った時の、係員と半径1メートル半にいた人のほ~っと和んだ空気が忘れられない。
「私のアクセントはチャーミング~」なんて、まに受けてるわけではないのだ。
だが、その言葉を素直に受けること、それはとても大切なことだった。
いつまでもコンプレックスを抱えないでよかった。私の個性だと開き直れてよかった。
なぜなら、それはどうしたって変えられないものなのだから・・・