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#90 運動音痴の涙とかるた大会の涙
これは、不公平ってなんだろう?と苦悶した、私の子ども時代の話だ。
私はまず走るのが遅かった。
50歳になってからお世話になった中国医学の先生がいる。お灸や鍼治療に通ううち彼女は、私の体の可動域や筋肉のつき方、動く上での癖のようなものを熟知していたのだろう‥‥
そして言われたのが、私の左側の股関節のつき方がおかしいということだった。
その時に初めて、思い当たることがあった。私が赤ちゃんだった時に股関節脱臼でギプスをしていた時期があったらしいことだ。
それは、私の母方の祖母が私のオシメを替えてくれた時に、片方の脚だけ長いことに気づいてくれたというようなことを聞いたことがある。
私はよく泣いたらしい。
そりゃそうだ、股関節脱臼は痛かったはずだ。
まあ、幼児期に入ってもよく泣いたらしいので、泣いた理由に確信はないのだけれど‥‥
ギプスをされた甲斐あって、脚は変形もせず歩き方にも影響しなかった。だから、そのことと走るのが遅いことは全く結びついてはいなかったのだ。
中医の先生から、ずっと足が遅かったのはもっともなことだとはっきり言われたことで、長い間の苦悩の理由が納得できて慰めにもなった。
走るのが遅ければ、体育の時間は嫌いになる。跳び箱も嫌だったし、泳ぐのも苦手だった。今にして思えば苦手意識が強すぎて気力で負けていたのかもしれない。
個人の競技が苦手なことは、自分がカッコ悪い思いをするだけでよいので、まだましだった。
私が辛かったのは、グループ競技、それはほぼ球技を意味していた。
ドッジボール、ソフトボール、バレーボール、バスケットボール‥‥
全部下手だった。
ドッジボールではほぼ最初にボールに当たりコートから抜ける。
ソフトボールやバレーボールでは相手チームから狙われる弱スポットとなる。バスケットボールでは邪魔にならないことのほうが大事だったりする。
プレイをするからには勝ちたい級友たちは、点が取れるための作戦を練る。時には私の側についてカバーしてくれるし、時には私を完全に無視してボールが流れる。
私は、カッコ悪い自分が嫌いだった。
私と同じチームになると、級友たちがちょっと嫌な顔をするのをとても敏感に察知したし、それが居たたまれなかった。
ある時、クラスでかるた大会があった。
なぜか我が家では皆百人一首で遊んでいたし、上の句のどこまで聞いたら下の句がわかるか、という対策まで家族の中では普通にやっていたことだったのだ。私にしてみれば、得意なことを級友たちの前で披露する千載一遇のチャンスがやってきたのだ。
私は俄然色めき立った。
すでに百首すべて上の句を聞けば下の句をそらで言えた。
かるた大会では私の一人勝ちだったと思う。
だが私はたちまちしっぺ返しを食らうことになる。
私が活躍することを誰も喜ばないのだ。
下の句を聞いてから札を探す級友たちに対して、上の句ですでに札を探す私は、早く見つければまだ上の句が読まれている内に、札をとってしまう。
みんな「ずるい!」と言った。
「ミズカがいるから面白くない」と言った。
ずるいかな・・・?
私みたいに早く走れず高く飛べない人間にとって、それが全部できる人間はずるくないのかな・・・
結局クラスで優勝したって、ちっとも誇らしくなかった。
私はその時の気持ちを、先生に提出することになっている日記帳のようなものに綴った。
その翌日それを読んだ先生が、みんなに聴いてほしいと言って私のその作文を読みあげた。
たまたまかるたが得意だった私に対してみんなは不公平だと言った。なら不公平ってなんだろう?私がいつも運動の出来ない自分が嫌でたまらない‥‥だから自分にもキラリと光る場面がほしかっただけだ。こんな私の気持ちはやっぱりわかってもらえないのかな‥‥
そんな内容だったと思う。
クラス全体が不気味なほどに静かに聴いていた・・・
私は消えてしまいたい気持ちと、振りかざしたい正義との間で揺れていた・・・
翌日から何が起きたかというと、級友の中でも群を抜いて運動能力の高いゆかりちゃんが私に逆上がりを教えると宣言したのだ。
ゆかりちゃんは休み時間や放課後に、私を探して鉄棒で特訓をしてくれようとした。
あの時、自分がどれくらいの決意を持って臨んだのか、よく憶えていない。確かなのは、私が逆上がりができるようにならなかった、ということだけ。
嬉しかったのか逆に困ったのか、今の私にはその感情が思い出せず、ゆかりちゃんの思いやりだけが光っている。
運動ができないのに運動部に憧れて、中学では結局補欠入りもできなかったり、高校では部のマネージャーという立場に収まった。『運動部の気分』なのか『運動部というステータス』なのか、そんなものに固執した自分がいた。連帯感の端っこにだけでも仲間入りしていたかったのだ。
ちはやふるの漫画が出たのが2007年。私が英国にいてその存在を知ったのはもっと後になるが、初めて読んだときに「こんな世界を私も子どもの頃に知りたかったな」と思った。だって、百人一首は大好きだったし、かるたはまるでスポーツだとその時知ったからだ。
もしもかるた部があったなら、私の青春はちょっとは違っていたかな‥‥ 得意でも心底楽しいわけでもなく無理して運動部を続けた私は自分に正直ではなかったのかもしれない。
あの時はそんな風に考えることもできなかったけれど、40年以上経って今なら思うことがある。
あのクラスの先生はなぜ、かるたを球技のようにグループで競わせてくれなかったのだろう。
かるた大会を個人競技ではなく、グループ対抗にしてくれていたなら、チームメイトは自分の活躍を応援してくれたはずなのだ。その時こそ、まさに私が憧れ続けたチームの連帯感と、チーム一丸で相手と競い合う興奮を分かち合えたはずだったのだ。
先生を責めても仕方のないことだけど、もうちょっと想像力が欲しかったよ、あの時のクラスの担任。
もしもこのnoteを読んでくださっているあなたが学校の先生だったなら、運動ができなくていつもみじめな子が輝ける分野を見つけ出して、グループ対抗で競う楽しみを与えてあげてほしいです‥‥
そんなことをこ~んな歳になって初めて気づいたので、書いてみました。
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