「ミッション乱高下!」第1話
白衣は最高だ。今年も白衣に命を救われる季節がやってきた。
東京都立双原高校の化学科教員用職員室で、沖津英莉は羽織っている白衣の襟を固く握りしめた。
東京の7月の猛暑は当然耐え難いが、24度以下の冷房に半袖で耐えるのはもっと耐え難い。不運なことに、このコンパクトな化学科用の職員室には実に効率良く、満遍なく冷風が吹き荒れており、どこに机を配置しようが逃げ場など無い。
しかし今、私は半袖ではない。半袖のブラウスの上に、長袖の白衣を羽織っている。この白衣が無ければ凍え死んでしまう。
私は凍え死んでいる場合ではないのだ。期末テストの模範解答と生徒の答案用紙を血眼になって見比べ、黙々と採点の赤ペンを走らせる。今日は7月10日。明日の2時間目と3時間目に1年4組と3年2組の授業で答案返却をしなければならない。それが終わっても、まだまだまだまだある。授業を受け持っている全8クラス分、約320枚の個性豊か過ぎる答案用紙を厳しく、正確に、臨機応変にさばかなくてはならない。もうこうなると、ほぼ白紙で出してきた奴に少し感謝してしまいそうになる。問題意識を持つのはその後だ。
風邪を引いてられない、大きな理由はもう一つ──待ちに待った、夏休みが控えている。
英莉は黒いヒール無しパンプスの片足を脱ぎ、ストッキング越しのペディキュアをそっと盗み見た。昨日自分で塗ったばかりの、黒々と艶めく5つの足の爪。
自分で塗ったが、上手くできた。ツヤツヤで、きれいだなあ。この黒いペディキュアを新しいサンダルに早く合わせたい。手のネイルは控えているが、その分、学校では見えない足のネイルで思いっきり派手な色を試すのが、煩雑な日々へのささやかな抵抗というか、反骨心の現れなのかもしれない。
7月21日からの夏休み期間は、定時退勤がしやすく連休もある。友達とのバーベキューや温泉旅行が控えている。その時は、手の爪もオシャレしよう。いっそネイルサロンにでも行ってしまおうか。
──駄目だ、また浮かれて手が止まってしまった。集中力が切れている。
大きく伸びをして、回転椅子に背中をどっかりと預けた。壁の時計を見ると、18時50分。
休憩しよう。教職員用トイレに行って、ついでに、副顧問をやっている園芸部の花壇の様子でも見てくるか。
英莉は立ち上がり、廊下へ出た。24度の冷房に芯まで冷やされた体を、温かく湿った空気が包む。ああ、サウナの気持ち良さって、こんな感じなのかな?いや違うだろうな。
体が温まっていく感触に安堵しながら、英莉は廊下をゆっくりと歩き始めた。
東京都立双原高等学校は、制服が少し変わっている所以外は至って普通の、そこそこの偏差値の進学校だ。
男子は、深緑色の学ラン。女子は、深緑色のセーラー服に黒いリボン、そして小さな黒いリボンが後ろに付いた黒のハイソックス。
リボン付きのハイソックスが学校指定なのは珍しいので、女子生徒達に色々と聞いてみたことがある。彼女達いわく、毎回洗濯するのでこのリボンは取れやすいらしい。ちなみに、リボンが取れた状態のハイソックスを履いていても、教員達は特に何も言わない。一方、リボンが取れたり靴下に穴が開くたびに、律儀に学校から買っている女子生徒も多い。割と気に入られているらしい。
生徒の完全下校時刻は19時。教室で駄弁っている生徒がいないかの見回りも兼ねて、ゆっくりと廊下を歩く。
部活終わりと思われる数人の生徒とすれ違い、「さようなら」と声を掛け合う。
そしてまた一人、生徒が廊下に現れた。
「さようなら」
「………………なら」
口元を見なければ、無視されていると思うほど小さな声。
淵上ハルカ。英莉が担任の1年4組の女子生徒だ。うつむいた、やや暗い無表情ですれ違い、下駄箱がある方向へ歩いて行く。
彼女のことは、少し心配している。
英莉が淵上ハルカを見かける時、彼女はいつも黙って一人でいる。友達と談笑しているところを、入学式からの3か月で一度も見たことがない。
この前の個人面談では、彼女の好きなことや、やりたいことなど、結構食い下がって聞いたのだが何も出てこなかった。成績は全教科平均よりも良く、問題はない。そして得意教科も苦手教科も無さそうだ。「全部まんべんなく出来るって、凄いことだよ」と褒めたが、特に嬉しそうにもしなかった。
笑ったら、かわいいと思うんだけどなあ、とか思う。
英莉が休み時間に教室に入ると、ハルカはいつも一人で机に座り、ずっと頬杖をついている。ハルカが周囲に対して壁を作るのと同様に、クラスメイト達もハルカに対して壁を作っていた。しかしそれは「あまり話しかけない」というレベルであって、嫌われていたりいじめられている様子は、英莉が見る限りでは、今のところは無さそうだ。
そんなハルカは、当然というか何というか、部活にも入っていない。授業が終わったら真っ直ぐ帰れるはずだ。
この時間まで、一体何をしていたのだろう?
英莉はトイレを済ませると、外へ出て花壇へ向かった。
7月にもなれば、夜7時はまだまだ空が明るい。戻ったら、外が暗くなるまではやろうかな、と思う。
英莉が花壇を眺めながら校舎沿いの角を曲がった、その時だった。
校庭に、巨大な黒い物体がそびえ立っている。
真っ黒で、5階建ての校舎よりも背の高い物体。
その真っ黒な物体には真っ黒な脚が2本あり、真っ黒な胴体があり、真っ黒な両腕があり、真っ黒な頭があり──
「…………え、なに?あの、黒いの……え、でか……え?」
その真っ黒な頭がゆっくりと、こちらへ振り向く。
「あ、こっち向い……」
二つの白く光る目が、間違いなく英莉を見た。
「は!?何あれ!?」
やっと危機感が目覚め、英莉は全力で走った。
背後でズシン、という巨大な足音がする。ゆっくりとした足音だが、確実にこちらへ近づいて来ている。
「なになになになに!?ヤバい!何かわかんないけどヤバそう!!」
とりあえず、見えないところ!校舎の中!!
さっき出た教職員用玄関を目指して力の限り走る。が、数歩で靴が脱げ、体が空中へ投げ出された。着地と共に、左脚がコンクリートに擦り付けられる。
「いっっっっった!!」
ちらりと見ると、黒のストッキングが所々破れ、その下の肌から血が滲んでいる。
確かあの靴のキャッチコピーは『全速力もいけるパンプス』じゃなかったか?嘘だったのか。いや、正真正銘の全速力は靴メーカーも想定外か。
その『正真正銘の全速力はさすがにいけなかったパンプス』は、思ったより後ろに転がっていた。戻って履き直すのも、また転ばされるのも、あの黒いデカい何かに追いつかれるリスクを上げる。
見ると、黒いデカい何かは確実に英莉に近づいて来ていた。
英莉は立ち上がり、ストッキングの素足のまま走った。幸い校舎の入り口はすぐそこだったが、ざらざらしたコンクリートを素足で踏みしめるのは、数歩でも足裏が痛んだ。
「あああああもう!!何この状況!!」
訳が分からなさ過ぎる。ヤケクソに叫びながら校舎へ逃げ込む。
入ってすぐ、真っ赤な非常ボタンが目に入った。そうだ、この危機を校内へ知らせなくては。
英莉は消火栓の上に設置されている非常ボタンへ飛びつき、生まれて初めてその固いボタンを力いっぱい押し込んだ。
廊下中の非常ベルが連動してランプが灯り、真っ赤な光で廊下が染め上げられた。
不安を煽るサイレンがけたたましく響く。
『火事です。火事です。1階で、火災が発生しました。落ち着いて避難してください』
アナウンスを聞き、英莉は頭を抱えた。
「外へ避難してどうすんの!!ダメだ、ナシ、今のやっぱナシ」
サイレンとアナウンスが淡々と繰り返される。止めなきゃ。しかし、止め方が分からない。
──落ち着け。
取り敢えず、この非常ベルは諦めるとして。1階に人がいれば、外に出ないように真っ先に警告した方がいい。
あの黒い怪物のことはさっぱり分からないが、足音はやんでいる。校舎を破壊しに来てはいない。
英莉は痛む足で廊下をまた走った。生徒はもう全員帰っているはず。しかし教員はまだ残っているだろう。3階から上の職員室に全員いれば時間が稼げるんだけど……ああでも、このアナウンスを聞いたら、みんな真っ先に外へ出ようとしてしまう──
1階の教室に、人がいる。
女子生徒だ。
「外に出ないで!!」
叫んで教室へ入った。
立っているのは──淵上ハルカ。
淵上ハルカ?さっき帰ったはずでは?
いや、今はそんなことはいい。状況を知らせなくては。
「今、外に、……えーと、なんか怪物みたいなのがいて。あ、いや、信じられないと思うけど!とにかく外は危険なの!校舎にいて!」
自分で説明しながら、自分でも訳が分からない。幻覚を見たと思われてもしょうがないし、幻覚ならまだマシだ。とにかく今、外に出させるわけにはいかない。
「えーと、伝えたから!じゃ、私、先生方にも伝えに……」
「今は誰もいない」
ハルカが静かに言った。ハルカがこんなにはっきり喋るのを、英莉は初めて聞いた。
「ん?誰もいない?……って?」
「校舎にはアタシ達以外に誰もいない」
「……あ、そうなんだ……。それは、よかった……え、ホントに?」
それはきっとないだろう。もう2人の化学科教員のうち、1人は英莉が休憩に出るまで化学科職員室に残っていた。他にも教科ごとの職員室は複数あり、19時は全員退勤しているほど早くはない。特に、この時期は。
「『誰もいない』って、どういうこと?確認したの?」
ハルカはいつも通りの無表情のまま、英莉の質問に答えなかった。ふいに、ハルカは背負っているリュックを机に降ろした。
今気づいたが、ハルカの持っているリュックは少し奇妙だった。
黒い小さなリュック。小さい。明らかに、学校用の教科書やノートがたくさん入る大きさのものではない。そして、黒いコウモリの羽のような、悪魔の羽のような飾りが付いている。
あ、こういうデザインが好きなんだ……と、呑気なことを英莉は思った。
ハルカはリュックから、拳銃を取り出した。
「!?」
思わず英莉は後ずさった。え?でも、いや、さすがに──
「さ、さすがに、偽物でしょ?サバゲー?とかで使うやつ?ねえ、それ、本物じゃないでしょ?本物じゃないよね?」
ハルカは全く表情を変えずに、銃を持った左手を真っ直ぐ窓へ向けた。
引き金を引いた瞬間、銃口が火を吹き、銃声が英莉の耳をつんざいた。
「ひぁッ!?」
英莉はさらに後ずさり、黒板に背中を強く打ち付けた。羽織っていた白衣がずるり、と両肩から落ちる。
恐る恐る、目だけを動かして窓を見た。ガラスがひび割れたその中心には、完璧に丸い穴。
淵上ハルカは英莉を上目遣いに睨み、言った。
「ニセモノとかホンモノとか、何?銃は銃よ。見れば分かるでしょ?」