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【恋愛小説】私のために綴る物語(48)
第九章 ブルートパーズの首輪(1)
史之は旅行から帰るとすぐに、槇村のクリニックの予約を取ろうとした。簡単に診察の予約が取れた。金曜日しかも最終の時間だった。
史之はカウンセリング室に通されると、待っていた医師、槇村晴久の顔を思わず見つめてしまった。
確かに多香子が惚れそうなルックスとも言えた。ちょっと精悍な感じは、自分にはないところかもしれなかった。それに、明らかに大人の男だった。
「それで、夏川さん。お悩みというのは彼女との行為のことですか」
「そうです。一度別れて、どうにかよりを戻せたのですが、信頼してくれていないようで、明らかにイクふりをしているんです」
「なるほど。たしかに女性のメンタルな部分が大きいですからね」
史之は思い切って、切り出すタイミングだと思った。
「やっぱりそうですよね。これが彼女なんです。澤田多香子といいます」
史之はスマホの写真を見せながら言った。その写真を見て、晴久は冷静に対応しようと話しかけていた。史之の目が晴久の心を刺しぬいていた。
「本当ならばご一緒できればいいのでしょうが、なかなか難しいでしょう。そうですね。まずは何をしてほしいのかとか何が嫌なのか。お互いに話し合うのを避けては駄目ですね。きちんと同意を得てというのも重要です」
史之は晴久の顔を改めて見つめていた。
「それは、誰でも可能なことですか」
「可能というよりも重要なことでしょう。相手を思いやるという意味でも」
そうして、診察時間が終わると待合室で待つように言われた。
史之が会計をすまし、ぼーっと待合室で待っていると、看護師が近づいてきた。
「こちらは業務終了となります。ただ先生が個人的にお話ししたいそうなので、このままお待ち下さいとのことです」
看護師は入口を閉じて、帰り支度をして出ていったようだった。
入れ替わるように、その男がやってきた。
「すいません、おまたせしました。こちらへどうぞ」
そう言って、プライベートルームに案内された。
部屋のテーブルにはすでにお茶と菓子が置かれていた。
「どうぞお座りください」
「ありがとうございます」
「それで、お話というのは」
「多香子のことです。彼女が変わったのは、貴方と関係を持ってからのことではないかと思い当たりました」
「ひょっとして貴方の腕の中で、多香子さんが啼かなくなったということですか」
図星を刺された史之は男の顔を睨んでいた。そしてふっと笑って見せた。
「それを知って。僕は多香子の伸びやかで、おおらかなところが好きなんです。だから彼女を抱いて、喜んだ声を聴かせてくれることで、僕も幸せになるんです。それなのに。聞いたら声を上げるなと言われていて、彼女もそれを受け入れたと。僕は信じられなかった。だから、会って話をしたいと思ったんです。こんな方法が良いとは思っていません。でも、僕にはこれしか思い浮かびませんでした」
「さっき、診察中に私が言ったこと覚えていますか。話し合いをして、同意を得てと。それは実際に私と多香子さんの関係でも実践していることです。これを見てください」
一冊の本を取り出して、絵の書かれたページを開けて見せた。そこには縛られ、髪を乱した女性が書かれていた。
「これは多香子さんからプレゼントされたものです。私の性癖を理解してくれている証拠です」
晴久は史之の反応を確認しながら言った。
「つまり、私はよく言われるSM嗜好者で、嗜虐性のサディズムを持っているんです。多香子さんは信じられないでしょうが、被虐性があるんです。それで、お互いに確認しながらしている中で、彼女は声を上げなくなったということです」
「どうしてそれを、貴方が気がついたのですか」
「貴方も気がついているはずです。彼女のように気が強くて、頭の回転も良くて、ワガママで、伸びやかでおおらかな女性を、組み伏せて男としての自分に屈服させる達成感があることを。そして彼女もそれを受け入れている。それをはっきりと自覚して、同意しながらしている私達のほうが、フェアとも言えませんか」
「僕にも嗜虐性が。他の人で物足りなかったのはそのせいだと」
「確かいちど距離をおいて、よりを戻したとお聞きしました。彼女の魅力は、闇があって惹きつけられるんですよ。ある程度力のある男性にとっては」
「でも、そういう人たちの行為には危険なことが」
医者の顔を崩さない男の前で、考えもしない言葉を聞いて史之は困惑していた。
「確かにご心配されることはわかります。しかし、私は縛ることもしますが、専門家から指導を受けました。医者ですから危ないこともわかります。他人に預けることは絶対にしません。だから、心配する必要はないのです。それともう一つ話しておきたいことがあります」
晴久は夏川の表情を確認して、一度区切りをつけて、また話しだした。
「多香子さんは、あなたとわたしの両方を愛せる人だということです。それは浮気とは違います。同じ熱量で愛せる人がいるということです」
「僕とあなたを同じ熱量で、愛していると言うんですか」
史之は一層混乱していた。多香子は多情なのか、それとも淫乱。いや、多香子の理性はしっかりとしているし、自分よりも倫理的に見えた。
「ポリアモリーという言葉を聞いたことがありますか。同時に複数の恋愛をする人たちのことです。最もそれを実践する場合、恋人の全員が理解する必要がありますけれど。私は多香子さんの気持ちをまず大事にしていきたい。そのためにも私達は話をする必要があります」
「流石、説明がお上手です。ただ、僕は彼女を愛している。多香子を幸せにするのは自分だけであるべきなんです。それだけは譲れないです」
「お言葉ですが、私にとって多香子さんは、かけがえのない人なんです。きちんと理解してくれる女性が、他に現れるとは思えませんから」
平行線を描きそうな話に、史之はここで一旦引き下がり冷静に考えるべきだと思った。
「今日はお時間いただきありがとうございました。僕も、槇村さんと分かり合う必要があると思っています。これが名刺です。置いていきますので、これからもよろしくおねがいします」
「待ってください。私も名刺を。これは個人的なアドレスです。私こそ、これからもよろしくおねがいします」
史之は晴久に案内され、通用口から外に出ると大きなため息をついた。
勝てない相手だった。多香子を愛しているとしか言えなかった、敗北感だけが残っていた。ああ言ったものの、多香子はあの人のもとに行くべきだと思った。
もう自分の好きだった多香子から、変わってしまった彼女を抱くのは無理だと実感していた。ただ、塚嶺君には多香子が惹かれなかった理由がはっきりわかった。
くすっと笑って、少し涼しい風に吹かれることにした。
晴久も大手ゼネコンの一級建築士という史之に、まだ青臭さを感じていたが、愛しているとはっきりいえるのを、羨ましいと思っていた。
このことを多香子にはまだ言わないということは、暗黙の了解をしたとお互いに感じていた。
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