【小説】奔波の先に~聞多と俊輔~ #1
プロローグ(1)
麻痺をして足腰に力が入らず、あんなに重かった体が軽い。なにしろここは暗くて何も見えない。顔を上げてかすかに見える光の方に歩いてみる。
「待ってたよ」
聞き覚えのある声が体から響いてくる。隨分前から聞いていない懐かしい声。声のする方を目を凝らすと、光の中に見覚えのある姿があった。
「しゅんすけ」
思わず言葉がこぼれた。こうやって話すのは一体何年ぶりだろう。懐かしさも感じていた。
「やぁ、久しぶり」
笑顔が見えた。若い、20歳くらいか。出会った頃を思い出す。顔を近づけて来て、左の頬を指でなぞるように触れてきた。
「ここにあった傷跡がなくなってる。それに聞多も若い」
今度は首に腕を巻き付けてくる。やはり顔が近い。あまりにじっと見据えるてくるので顔を背けたくなってきた。この男はここまで、情をあからさまにするのだったか。
「そうか、君は僕と出会わない人生を選びたかったようだし」
冷ややかな目で見つめられた。こんなふうに言われる覚えなどない。
「えっ」
「君の姿は僕と出会う前のだ。今の姿はやり直したい時代とか一番心に残っている時のものだからな」
「わしにはわからん。見えないからな」
ごまかそうとすると、俊輔は睨みつけてきた。
「確かに君には君の生き方がある。渋沢やら益田やらと色々遊んでるのも知ってる。僕がいてもいなくても大した違いはなかったろう。でも、僕には君なしの今はありえないんだ」
このままだとこいつに食われてしまいそうだ。もっとも死んでいる身だとその後はどうなるんだろう。
「君の心残りは何なんだ」
「総理大臣になれなかったこと」
とっさに出た言葉に俊輔は後ろに下がって、首に回していた腕を離した。
「最初に惚れたおなごをものにできなかったこと」
こちらの方が今の姿に合ってるのかもしれない。俊輔の表情を見ながら付け加えた。
「済まないが一人にしてくれないか。疲れているんだ」
心がついてこないままだった。そう自分で選んだ死に方だった。
「疲れるって?体を持っていないのに」
君は生きたかっただろうから。
「疲れてるんだ。うるさい。君の側には高杉も木戸さんもおるんだろう。これ以上構わんでくれ」
イライラが募ってくる。
「わしは君とは違うんだ」
妻は悲しんでくれただろうか。選択を告げた時、どんな顔をしていたか、もう思い出せなかった。
ほとんど怒鳴りつけることになった。そうだ家族の元に行こう。母上に自分の口で伝えなくてはと思った。その時自分の体が光りに包まれて、俊輔が見えなくなった。
その瞬間現れたのは、懐かしい山口の自分が使っていた部屋だった。夢がいくらでも見ることのできた部屋。しばらくぼうっと外を眺めたり、大の字に寝転んだり繰り返していた。
そうだ母上にご挨拶をしなくてはと立ち上がった。部屋を出ようとすると、兄上がふすまの前で立っていた。
「帰っているのは気づいとった。挨拶は良い。お前に客人だ。客室に通してある」
兄はこれだけ言って歩いていった。
客、誰だろう。もしや俊輔と思ったが、あいつだけは会いたくないと念じていたから大丈夫だろう。するとあの男か。公に出ることになったとき心の中心にいた人物、めんどくさいことになりそうだ。
「失礼します。」
声を掛けふすまを開けて中の人物を確認した。
呼吸を整えて感情を抑えることを意識させる。
「これは、高杉君久しいことで」
「何あらたまってるんだ。萩の奴らの使いできた。ここの屋敷に負けないのは僕くらいだからな」
「確かにわしでさえ広いと思うからな。何故か三条様がいらした時の屋敷になっとる。で、御用とは」
「七日後茶会を催す。君にも出席してもらいたい」
「茶会とは」
「茶の湯の席だ。アフタヌーンティーパーティではない」
思わず吹き出しそうになった。
「俊輔の企みですか。ならば申し訳ないがお断りです」
「そもそも手前の茶の湯は勝手流、人様の前で嗜むことができませぬ」
気持ち悪い位丁寧に口が動く。
「俊輔の意見だとなぜ思う」
「大体お茶会と言われて茶道の茶会と西洋のアフタヌーンティーパーティを思い浮かべるのは、わしと俊輔ぐらいしかおらんでしょう。しかもわしが茶の湯で仲間と席を設けるようになったのはそんなに昔のことじゃない。俊輔はその仲間ではなくて、イライラしていたのを思い出した。そんなところです」
「俊輔にお前とは違うと言ったのは本当か」
「そんなに詰問されないかんかの。自分とこでゆっくりしたいだけっちゅうのに。もっともこの家は現実には無うなっちょります。母上にも兄上にも申し訳なく」
「孝行したかったと」
「そんなところじゃ。なのでほっといてくれんかな」
こんなこと延々と話して何になる。苛ついてはいけないと、息をついた。苛ついたら高杉の勝ちになる。思う通りにさせるかと意地だけが先に立つ。
「俊輔は、」
と高杉が言いかけたところで思わず声を張り上げてしまった。
「俊輔は関係ないと言うとる。もういい加減あきらめてくれんか。世の中がどうとかもどうでもええんじゃ」
高杉の顔を見つめて反応を見たが、表情を少しも変えることはなかった。
「わしに構わんほうがええと思うがの。人を殺したこともあるんじゃ。自分の立場と力を守るために。対立していためんどくさい奴を洋行させて、その後謎の死って。まぁあることじゃね。そんなんがあちらに居ちゃいかんでしょう」
冷酷になろうと薄ら笑いを浮かべながら言った。晩年は強面で通っていたのだ。高杉がどう思うがそんなこと関係ない、もうこの場を終わらせることしか考えられなかった。
「もうええでしょう」
席を立って人を呼んだ。
「お客様のお帰りじゃ」
取り付く島もないように動いた。高杉はこれだけはという感じで言ってきた。
「これは絶対に読んでくれ」
帰り際にわしの懐に差し込んで部屋を出ていった。見送りはしなかった。渡されたのは木戸さんからの文だった。一緒に洋行するつもりが叶わなかっただけでなく、見送りもできなかった人だ。
木戸さんから萩で会おうと言われたら行かざるを得ない。時間もないので簡単な返事をしたためて使いを出した。萩ではきっと攘夷運動やその後の動乱で先に来ている人たちと会うことになるのか。寝転がって天井をしばらく眺めていた。萩に行くべきなのはわかっている、自分の50年以上かけてやってきたことが、報いになるのかそのことが心に重くのしかかっていた。
どれくらいたったのか、女中が皆様がお待ちですと呼びに来た。居間に行くと、父上、母上、義姉上が膳に向かって座っていた。席につくと後ろに控えている女中までもが、お疲れ様でございましたと頭を下げて声をかけてきた。
「わしはこの湯田の家を捨てることになったのにええんじゃろうか」
「お前はこの長州の事も毛利の殿様のこともしっかりやっとったろう。気にすることはない」
父上が言うのを聞いて思わず涙がこぼれた。父上がわしを褒めるなんて生前は考えられなかった。
心が少し軽くなって、萩に行き同志達に会うのも悪くないという気になってきた。酒を進められ酔いも回ってきたのだろう。
「せわしないことですが、萩に行こう思うとります。木戸さんからおよびがかかりまして」
「高杉さんが参られたのはそのご用でしたか、ゆっくり話をされたほうがよろしいでしょう。あまり機嫌が良くないようなので心配してました」
母はこちらの顔を見て笑みを浮かべながら言った。
「機嫌は、大丈夫です。やっぱり馴染んだ味は旨いなぁ。今度わしの手料理を食べてください」
聞いていた皆の顔がひきつっていた。実家にいた頃は普通に料理していたはずだ。なのにこの反応はあちらの世界と変わらんじゃないかと少し不安になっていた。