この世界について
この世界とはなんだろう。
それは、私の考えによると、あるっぽいものである。
これは、ちゃんとは理解していないが私の空海の空の理解による。
私の空の捉え方は、物事とは、存在しているかしていないかよくわからんもんである、てな感じだ。
仮に存在している、とすると、
例えばここにはリンゴがある、としてどんなに確かにリンゴがあるという理由を並べてもそれは主観にしかならない。
確かに触れる、見える、味がすると言ってもそれは主観だ。
では科学とはなんだろう。
それはその主観を整理して限りなく共有できるものとして判断し記号化したものに過ぎない。
さきの触れる、見える、味がする、などからスタートし、こういう風に考え、こういう風に計測したら、確かにこれはこういう原子分子成分からできていてどの光の波長を吸収して反射して何色に見えて生物として他とは違う遺伝子を持ち生活環をもった種であり、と限りなく共有できると判断し、これはリンゴだと判断しただけだ。
なにも、科学のことを言わなくても、丸くて赤い形をした甘い食べ物のみんながリンゴ呼んでいるものだよ、と主観を共有できると判断して記号化しているだけだ。
だから、突き詰めると世の中の概念はすべて主観から成っていて、共有できると判断した記号はただの判断でしかない。
だから、ここにはリンゴがある、という主観は言葉という共有できると判断した記号からなっているものだからそれが本当かどうかなんて分かり得ない、もしくは主観的な判断でしかない。
言葉ですら共有できると判断した記号でしかないのだ。
それが本当かどうかの議論なんて言葉という客観化できる記号を主観的に使ってしかできないので主観的に客観的な答えを出すのは不可能だ。
結果、なにが言いたいかというとこの世なんてよくわからんもんだ。
あるかないか、あるとしてなにがあるかとかそれはなにかとかはよく分からんもんなんだ。
ただ、主観的なことを言えばなにか感じてるっぽいしなんかあるっぽい。
そこまでしか言えないのだ。
そして、その存在を感じるということはなにか物事に差異があってその差異を認識しているということだと思う。
存在というのは単体では存在し得ない。
たとえば、この世の色彩に黒しか存在しなかったらそれは黒という存在として存在できないということだ。
色彩に差があって色彩こ違いを認識できて初めて黒やその他白などの色彩が存在し得る。
言わば、無と1つしかないということはイコールだと考える。
もしほんとに1つしかないなら、その存在を認識できないから認識としては無と同義なのだ。
そこで世の中の認識として、波長の差異やら原子の差異やら概念の差異などがあるから認識ができるというわけだ。
そして、先のようにその認識自体も本当にあるかどうかなんてよくわかんないし、確かにあるっぽい、としか言えないのだ。
まあ、この考え方を良く使っていければいいと思う。
キーワード
空、有、無、差異、存在、概念、ゲシュタルト
主観、客観、判断
哲学、科学
ありがとうございます。