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ひとつひとつに着実であること

足りない部分とは何か。技術か、性格か、財力か。はたまた、素質そのものなのか。それでも他より勝る何かがあれば、そこに当てはまるだけの存在意義はある。

昨日書いたnoteの続きの様なものだが、あまり深く受け取らないでほしい。昨日のnoteが割と「突出して何かに秀でている人」にフォーカスを当てていた気がしたので、「何事も満遍なくこなせる人」という存在について考えてみた次第である。

「何事も満遍なくこなせる人」と言う人に欠点があるのか。欠点を克服したからこそ何事も満遍なくこなせるようになった。それは事実かもしれない。じゃぁ彼ら・彼女らが抱える「欠点」にはどの様なものがあるのだろうか。個人的には2種類あると思っている。

1つ目は、「自分に落ち度がない」と言う『過信』である。『自信』ではなく『過信』なのだ。この違いを考えてみよう。
『自信』の場合は「自分ならやれる」と言う「勇気」を指すと思っている。実際にそれを熟すだけの技量があり、気概もあり、効率性、判断力、柔軟性を持っている。1つのタスクを1人で熟せるという立派な存在という訳だ。

では、『過信』の場合はどうなのか。考え方は同じ、「自分ならやれる」と言う事だ。ただしここに一つ足りていないものと余計なものがある。足りないのは『勇気』、余計なのは『慢心』だ。過信するという事は、つまり「自分なら出来て当然」とわざわざ自分から「当然」と言うレッテルを貼りに行っているのである。これが周囲から「出来て当たり前」を助長する原因でもある。

2つ目は、「自分は突出したものがない」と言う『平凡』と言う考えだ。これは実は1つ目の理由に含まれた『慢心』と同じだと思っている。「このくらいなら自分でも出来る。でも得意と呼べるものはないんだ」と言う発想がこのタイプには存在している。実はその「このくらい」と言うのがどれだけ大きいものなのか、当の本人が理解していない事が何より問題なのである。

お気付きの方もいるかもしれないが、「このくらいなら自分でも出来る」の積み重ねで得たものと言うのはかなり大きい。恐らく「突出して何かに秀でている人」には特に羨ましく映る部分だろう。だからこそ、この発想は『慢心』なのである。これも同じで「出来て当たり前」を自らが決めてしまっており、周囲からもそう思われる理由なのである。

ポジティブ発想かネガティブ発想かの違いに過ぎないのだが、決してこれを「悪い」と言っている訳ではない。「何事も満遍なくこなせる人」は、「自分が何でも出来てしまう」事を知っている・または「何でも出来ている」という事実に気付いていない事が欠点なのではないかと思う。そしてその欠点を意識していない所為で周囲から異常な期待と異様な失望に見舞われる羽目になるのだ。

個人的に、実は「何事も満遍なくこなせる人」にも「突出して秀でている部分」というがあると思っている。
物事には熟すための手順があり、それを全うにこなせる、と言う事が何より大切なのだ。「何事も満遍なくこなせる人」と言うのは、この能力が特に秀でている。そう、「手順を正しくこなす」ということだ。

世の中には説明書だってろくに読まずに扱って「使えないんだけど」とクレームを出す人間もいる。そう言う人達と異なり、「何事も満遍なくこなせる人」は説明書をきっちり読み、正しくひとつひとつ組み立てることが出来る。技術や裁量の事情もあるだろうが、説明書を読まない人達に比べれば圧倒的に成功率が高い。

物事への理解力、観察力、判断力などの能力が秀でているのが「何事も満遍なくこなせる人」という人種だと思っている。平々凡々なんて思わなくてもいい。ただ、過信はその身を削る。

その両方の中間地点に位置する「自信」を胸に置いておいてほしい。そして、いつだって「突出して何かに秀でている」枠は開いている。何事に対しても真摯に取り組める貴方なら、きっとこっち側も楽しいさ。

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