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「死」は幸福な人の救済か

以前こんなnoteを書いた。なんか不思議な伸び方をしていて、ささやかながら悩む方々に届いているのか、それともこれを機に考えてみた、と言う人が多いのか。

今回はこの話の延長…と言うより、前回とは異なる視点で『「死」は救済となるのか』を考えてみようかと思う。と言うのも、前回は「死ぬことで幸福度をニュートラルに戻す = 不幸な人の幸福度がプラスになる」と言う話だったのだが、今回は「幸福度がプラスの人が死ぬと幸福度は下がるのか」を真面目に考えてみようかと思う。

実は前回書いたnoteの中に、あえて入れなかった話がある。それを今回は紹介したい。

ある舞台作品にて、こんな台詞があった。

幸福な人生とは何か
それが決するのは、
臨終の瞬間において他にない

私はこの台詞についてとても納得している。「もう死ぬんだ」とわかった瞬間、「あぁ幸せだったなぁ」と思えればそれは幸せな人生であり、「もっとこういう風に生きたかった」と思うならそれは「幸せを得られなかった」人生なのだろうと考えている。勿論多少の差はあるかもしれないが、死ぬ瞬間にこそ「生きてきた人生がどうであったか」がはっきりわかるのではないだろうか。

私のnoteを紹介して、こんな話をしてくださった方が居た。こちらのnoteでは前述の「幸福度がプラスの人が死ぬと幸福度は下がるのか」をテーマに書いてくださっている。

この話に対し、図々しくも私なりの意見を述べたいと思う。…反論、と言うものではなく、哲学者擬の性程度に考えてもらえれば良いかなと思う。人間の精神と思考に着眼してみた、と言う話をしようと言うわけだ。そのため、今から書くこのnoteは斜め読みで構わない。

例え話をしよう。幸せの絶頂に達した人が居たとする。その人にもし「今死ねば永遠に幸せなままだ。死にたいか」と問うたとしたら、その人は死を受け入れるだろうか。これをお読みの方も、ながら程度で良いので是非考えてみてほしい。幸せの種類は問わない。貴方の思う一番の幸せを思い浮かべながら、「その時死ねば幸せなままだ。死んだ方が幸せだったろうか」を考えてほしい。

主観、幸せな人間は一時的に死の概念が消えると思っている。何故ならば幸せと言うのも不幸と言うのも一律他者を伴い発生するイベントであり、幸せな時と言うことは他の誰かもその幸せを共有している可能性が高い。つまり、その時に自分が死ぬと言うことは、幸せを共有した他者を不幸…いや、蔑ろにする行為と判断するのではないかと推測する。自らの命を絶ち他者を蔑ろにする行動が果たして『幸せ』と言えるだろうか。私はそれは『歪んだ幸福感』、すなわち本質は『不幸』だったと考える。

つまり、以前に私の書いたnoteでも引用した通り、『「死」= 幸福度をニュートラルにする』と言う話に沿うと、幸福度が高い人と言うのは(基本的に)天寿を全うする以外の死に方をすると自ずと幸福度が0(≒不幸)になるのではないかと思う。

『幸福』と『不幸』は対極に位置する。定義的な意味でも勿論そうだが、『幸福』は『長く続いてほしいもの』、『不幸』は『早く終わってほしいもの』ではないかと思うのだ。『長く続いてほしいもの』を敢えて自ら断ち切ることに、『救済』があるだろうか。

私は、思うのだ。
幸せな人は、不用意に死ぬと「もっと生きたかった」って、『不幸な人生』として終わることになると思うよ。

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