(創作)水色のスタンプラリー

 五月二十九日。月曜日の朝ってだるい。朝のホームルーム前のクラスは騒がしくて、耳がきんきんした。わたしが自分の席でふわあっと欠伸をしていると、先に登校していた君が「はい、これ」と何かを渡してくれる。白い包み紙。金色のシールが勲章みたいに貼られている。なんだろう。本かな。まさか、チョコレートとか。
「その。冬原さんって誕生日、今の時期だったよね」
 君はどこか恥ずかしそうに頬を染めている。短い黒髪。すべすべした薄い皮膚。わたしの爪なんかで触ったらその皮膚ごと、傷つけてしまいそう。
 わたしはわざとらしくため息をつく。
「明日だよ。五月三十日。全く、なんで一日フライングするかね」
「ちひらー、おまえ、相変わらず口悪いなあ」
 窓際のわたしたちの席に向かって、廊下側でふざけていた男子たちがからかってくる。男子たちの視線がプレゼントに向けられているので、頬がかっと熱くなった。日差しがまぶしいせいだけではなかった。
「あとで開けるね」
 あえて冷たく突き放して、君の方はもう見ない。それでも視力がいいわたしは、視界の端で君のことはどうしてもとらえている。
 君は数学の宿題のプリントを出して、丁寧なことに、見直しをしているみたいだった。あ、この宿題、家の机の引き出しの中だな。
 まあいいや。冬原茅平(ちひら)。明日で十七歳。特技は早弁当と体育と昼寝、だもんね。数学は苦手科目なんだから、プリントを忘れたってご愛敬だ。わたしがウインクしたって、あの中年教師には洒落もなにも通じないけれどね。
 休み時間に、人気のない教室外のベランダに出て、包装紙を開ける。出てきたのは「ご朱印帳」。
 え? なに? これ、なに? こんなものをプレゼントする意図、なに?

 ご朱印帳は、悔しいけれど、とてもきれいだった。文房具屋とかで売ってるの見たことはあるけれど、実際にさわるのは初めてだ。
 水色の着物みたいな布の生地の表紙には、蝶々の絵が金色の糸で刺繍されて描かれている。どうしよう。可愛い。けれど、そんな熱心にお詣りするほど、わたし、信心深くない。
 教室に戻ると、廊下側の男子たちがプロレスごっこをしている。女子たちはグループに分かれておしゃべりに夢中。この辺では「中堅」と言われる私立高校の、ありのままの日常だった。そんな中で、君はいつも、読書や宿題の見直しを自分の席でやっている。友達がいないわけではなく、学級委員長とか、友達の少ない陰キャ男子とかとはたまに話してはいた。
 君は「個人主義者」なんだなあ、と、隣の席になって二カ月が経つけれど、わたしはそう思ってる。それなのに、わたしには一学期の初めからずっと優しかった。どういうわけか。
「中身、見たよ。ありがとね」
 ブアイソな声で話す。君と話すとき、わたしは絶望する。なんで、可愛く愛想よく笑えないんだろうって。
 君は柔らかに笑う。晴れた日の小川のせせらぎみたいに澄んだ笑い方。(小川のせせらぎなんて、そもそも令和の東京っ子のわたしには無縁だけれど)
 君は授業の時、水色の眼鏡をかけている。今も、宿題の見直し中だからか、その眼鏡を外していない。可愛い顔立ちなのに、眼鏡をかけると不思議とシュッとする。君は、結構、女子から人気あるって、自分でわかってるんだろうか。
 隣の席だから、君がモヤモヤしてるときは、消しゴムをカッターナイフで細かく刻む癖があること、自然と知ってしまった。
 その消しゴムも白ではなく淡い水色だった。眼鏡も水色。消しゴムも水色。ついていけない「進学英語B」の授業のノートを筆記体でとりながら、「水色が好きなのかなあ」と漠然と思ってたっけ。
 君の水色は知的な水色。わたしも水色は好きだった。そして、隣の席だからこそ知れたもう一つのこと。君が英語のノートをとるのも筆記体だった。それはまぎれもない「共通点」だった。 
 わたしはそんなもの思いを胸の深いところに秘めたまま、ある恋を終わらせる「最後の手続き」をしていた。誕生日のことなんか、実は自分でも忘れていた。
 それはとびきり面倒なことだった。これまで生きてきて一番ってくらいには。

 五月三十日は最悪だった。生きてきた中でも、とびきり傷ついた日だった。わたしはその日、放課後の洒落た喫茶店で、その店の雰囲気を台無しにするようなひどい別れ話を延々としていた。話し合いは一時間三十分に及んだ。ドリンクバーの店でないのをこれほど後悔したことはない。ジュースやお茶一杯が四百円する店で、三回もおかわりをした。それなのに、プレゼントの代わりに「振られた」という事実だけがあとに残された。
 駅からも学校からも近くて、絵も飾ってあるお気に入りの喫茶店だったのに、しばらくはここに顔、出せないな。
 帰宅してから部屋に閉じこもっていた。父も母も仕事で夜遅い。その日は夕飯を夜八時になっても食べなかったけれど、わたしの空きっ腹を気にする人なんか誰もいなかった。今日会わなかった他のクラスの友達や遊び仲間たちから、ごく薄い軽いダイレクトメッセージがバンバン来て、それは「誕生日おめでとー」としか書かれていない。
 欲しいのは、そんな言葉じゃなかった。
 なんで、君にダイレクトメッセージを送ろうなんて、思いついたんだろう。
「失恋しました。彼氏と別れました」
 そんなダイレクトメッセージ。送信してから即後悔する。読んだら君も困るだろう。君がたとえば、大学生みたいな「大人の人」だったって、そんな重い言葉を送っていい理由になんてならない。
「冬原さん、フリーになったの?」
 君から、そんなメッセージが来た。ふわりと笑ったタンポポのキャラクターのスタンプとともに。
 今は六月になりそうだというのに、タンポポは妙にのんびりした顔をしている。こわばって、呼吸の仕方を忘れてたんだなあ。とわたしは気づく。
「電話してもいい? いま」
 君に寄りかかっていいですか? つい、期待してしまう。
「今は、予備校の講義を受けてるところなんだ。ごめんね。夜の十時ごろなら」
 君から、そんな返信が律儀にくる。わたしは急に、自分のふがいなさを自覚する。
「いいよ。いいってば」
 乱暴に言葉を早打ちして、君に送信する。
 スマホの電源を切って、早めにお風呂に入って寝てしまうことにした。夕飯を食べないのは体に悪い気がしたので、冷凍ピザをチンした。

「冬原さん。今度の休み、浅草寺に行こうよ」
 君は六月二日、そんなことをわたしに言った。わたしが今週ずっと、授業中に、先生の話もろくに聞かないで、傷んだ茶髪を枝毛切りはさみで切っているのが目に余ったのかもしれない。
 急に蒸し暑くなって、蚊も時々寄ってくる。嫌な季節だった。夏服に変わったから、君はさわやかな白シャツ。学ランの時と雰囲気が違う。君のことを勝手に王子様にしたくないから、わたしは視界の端から君を消す。
 早く席替えになれ、と思っていた。
 元カレに振られてすぐに、おでこにニキビができた。すごく気になっていた。明日の土曜日、皮膚科に行こうかどうしようか悩んでた。そんな時に、君が「浅草寺」なんて言ってきたものだから、「は」と機嫌悪く返してしまった。
 わたしは今、きっとブサイクだったろうな、と秒で自己嫌悪して、「ほんと、ごめん」とすぐに謝る。君は妙にご機嫌で、トントン拍子に、明日、土曜日午前十時に待ち合わせて、浅草に行くことが決まってしまった。わたしの皮膚科はお預けになった。
 まずいことになったよね。ご朱印帳、どこにやったっけ? 
 帰ってから、カバンを放り投げて、あわてて部屋中を探す。置き時計の裏。積んである服の下。学習参考書の棚の中。あちこち探して、中学校の卒業アルバムの下にあった時には、脱力して、絨毯の上にぺたんと座り込んでしまった。
 座り込んだまま、卒業アルバムのページをめくる。黒いおかっぱ頭のわたしがそこにいた。美化委員会や吹奏楽部の団体に交じって、はかなげに笑っている。分厚いダサい水色の眼鏡をかけている。優等生の君みたいなシャープな知性のかけらもない、もっさりしたこの姿。
 うちの高校は校則なんてあってないようなもの。入ってみれば、金髪にしている同級生だって何人もいた。わたしは高校一年生のゴールデンウィークに、周りの子に合わせて茶髪にした。美容室から帰ってきたわたしを見たお父さんとお母さんは、拍子抜けするくらいフツーの反応をした。だから、「映えない」のかなあと心配になった。けれど、その髪で高校に行ったら、前より頻繁に遊びに誘われるようになった。予定とシールで、スケジュール帳が埋まっていく。
 高校二年生のわたしは髪もカーラーで毎朝、巻いてるし、化粧だって薄くしている。わたしはわたしに惚れこんでいるつもりだ。けれど、どこかで自信がない。こんなわたしなのに、せっかくできた彼氏とだって別れたのに、この先、誰かが好きになってくれるのかなあと、自信がない。
 翌朝、空がわたしの好きなペールグレーという色をしていた。最寄り駅の北千住駅で待ち合わせてた。少し約束の時間より遅れてきた君は、ぴょこんとはねた髪をさすりながら、「バスが混んでて。ほんとごめんね」と言う。キャラメルを一個、申し訳なさそうにくれた。ふふふと子どものようにわたしは笑ってしまう。
 私服がワイン色のTシャツだった。慌てて走ってきたからか、うっすらとそのTシャツに汗がにじんでるのもむしろ好ましい。君自身は、わたしが汗染みを見ているのに気がついたのだろう。電車に乗っている時、無言で服を乾かすしぐさをしていた。
 わたしは、手持ちの中でも大人っぽい、黒いワンピース。水色のトンボ玉ネックレスを首にしているのに、君が気づけばいいけれど。
 浅草寺に着くと、すごい人だかり。コロナで規制されなくなったので、外国人の観光客も多い。背の高い力士みたいな体格の金髪のおじさんたちが五、六人、わたしたちの前を歩いていた。前が見えないじゃない。わたしが眉をしかめていると、君は、「ほら、こっち」とわたしの腕を自然に引っ張る。手が触れたのにどきりとすれば、チョコバナナ、と書いてある看板を指さしてニコニコしている。
「買ってあげるよ」
 わたしは子どもか。だけど、緊張して朝ご飯をろくに食べられていなかったので、お腹がぎゅるるうる、と音を立ててしまった。
 出店のお兄さんにまで、君のようにニコニコされながら、チョコバナナを二個もらう。一個はもちろん君の分。実は、こういうものを屋台で買ったのは十七年の人生で初めてだった。
 甘くて懐かしい味のするバナナ。小さい時におやつで出てくるの、好きだったなあ。食べ終わると、「ご朱印、押しに行こうか」と君は言って、カバンからぼろぼろのご朱印帳を取り出した。
「何個くらい押したの?」
 思わず聞いてしまう。
「東京タワーの上の神社なんかもあるよ。でも、個数としては少ないや。まだ十個くらい。常にカバンに入れてるから、もう、年季入ってるね」
 君は恥ずかしそうに笑う。わたしは、自分の真新しい水色のご朱印帳を取り出して、君のものと並べてみせる。ふたりで、年季の差を確認して自然に笑う。
 社務所でご朱印を書いてもらう作業は、どこか、小さい時にやった「スタンプラリー」に似ていた。赤い神社のハンコの上に、達筆で描かれていく力強い黒い文字に目を奪われる。
 浅草寺にもお詣りする。みんなの祈る姿、お賽銭を入れる音。外国人観光客のしゃべる外国語。いろんなものが渦巻いて、わたしの「今」をつくっていく。
「また、つきあってあげてもいいよ。ご朱印集め」
 浅草寺をあとにしたわたしは、勝ち誇ったような感じをあえて出しながら、君に言う。君はうふふと笑うと、「よかった。茅平が笑顔になってくれたから。きっと、すごく楽しいと思う」と力強く言う。
 待って。その「名前呼び捨て」は、どういう意味なんだい?
 

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