#18 冥冥といつしか卯月二十日月 鬼房
さて、当地に見える今夜の月はとてもきれいだ。
蒸し暑い夜なのだが、東の窓に月が昇ってきて、なにやら秋めく。
蒸している割には、大気もすんでいるらしく、清かに月が見える。
今は陰暦でいうと七月二十日の晩である。
そこで、今夜の月は「二十日月」。
「二十日月」は「更待月」と呼ばれている。
「更待月」なら一番名高いのは陰暦は八月二〇日の月である。
今年の暦で云うと九月二十二日の月である。
そこで、「更待月」とは、こうだという。
この解説で腑に落ちたことがある。実際に月を見ているは、空に昇ってきた月である、それは午後10時ごろとなるのだということだ。
歳時記によっては、こうある。「月の出は21時に近づくので、夜更けた感じである。田園ならばすでに寝静まった家の多い時刻である」。
自分は読解力がないものだから、この「月の出」という言葉に躓いて、21時月の出なんてあるのかと、混乱してしまったのだ。この月の出は、いわば天文学的な意味ではなく、山の端を越え東の空から登ってくる月を指していたのだ。
どうも、こういう融通の利かない読み方を昔からしがちなのである。
冥冥といつしか卯月二十日月 佐藤鬼房
そういうわけで、名高い当日の月ではなく、敢えて四月は「卯月」の二十日月の句を挙げたい。
「冥」とは、暗くて見えないという意味である。そこから、くらやみ。更に無知。暗くて目に見えないこと。
暗くて先が見えない、
手探りのように生きてきて、
今夜卯月の二十日月を見上げているよ。
そんな感じか。
今夜の月の月の画像、さっき撮ったのが、消えた。はて、・・・。
少し落ち着て考えれば、「季語」というものは、もともとが和歌に由来するので京都盆地の風土をもとにした四季の変化である。そのことを意識しないと、受け取りが混乱する。季語そのものが、基本的にローカルなものなのだ。京の都であれば、月も東の山の向こうから昇り、夜明けも山際からようよう白くなってゆくのだ。
この時代、俳句愛好者は全国にいて、というより、HAIKUならグローバル化した。
そういう時に、「季語」ってなんなのだろうと、思ったりする。
佐藤鬼房については、以下参照。