ため息俳句番外#14 黒揚羽
蝶は、春の季題ではあるが、四季それぞれの姿に趣きがある。
ひとりをり身の内そとに蝶舞ひて 加藤楸邨
一人でいる男に春の到来を告げる蝶。
鎌倉やことに大きな揚羽蝶 桂信子
古都鎌倉の明るい緑に映えて揚羽蝶が舞う。
病む日また簾の隙より秋の蝶 夏目漱石
漱石は胃弱の人であった、そんな秋の日に。
冬の蝶いづこもくらき夜明にて 飯田龍太
どんよりと暗い夜明け、凍える蝶一羽、心象風景のような。
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それで、立派な容姿のクロアゲハに出会った。森林公園のボーダーガーデンで、過日のことだ。
これまで、クロアゲハなら何度も見てきた。菜園にはレモンと蜜柑、それに金柑を植えてあるので、黄揚羽も黒揚羽も、しばしば姿を見せる。実際に黒揚羽の幼虫だと確信持てるものを見たことはないが、確かに何者かが柑橘の葉を食べ荒らしていたことは、あったのだった。
しかし、数日前に目撃した黒揚羽はほんとうに見事なもので、鮮やかな赤色の斑紋が見えたから、あれはたぶん雌である。
一心不乱に蜜を吸って、こちらの存在など全く無視して、花から花へと移ってゆく。
しばし目を奪われた、シャッターを連写にしたのだった。
こんな句がある。
黒揚羽花魁草にかけり来る 虚子
調べてみると「かけり」とは、能楽用語である。
黒揚羽が興奮状態であるのように飛んできたと、虚子は見て描いた。花魁草のもとへである。確かアゲハに限らず花の蜜を吸うことに心を奪われているらしく見える蝶は、花の回りを慌ただしげに羽ばたくものだ。その様を「かけり」とらえたのだろう。無学な自分であるから先ず「かけり来る」って何か?次に花魁草ってどんな花?二重に判らない。とはいえ、この時代はお手軽に調べる手立てはあって、ものの五分以内に、この句の字面の解釈は出来るのだ。
そこで、この句に戻ると、先ず作者は花魁草に目をむけていた、そこに黒揚羽が飛来したのだが、その様子からまるで物ぐるい、狂乱、唐突な出現という印象を得たという感じか。
うーんと思った、そう見てみると、失礼ながらほどほどの句であるように思える。確かにそういう黒揚羽の観察はあるだろうが、「花魁草にかけり来る」なると、なんだか俳句という舞台に上げられた作り物のように自分には見えてきたのであった。
・・・・・畏れ多くも虚子先生のお作、素人のたわごとである。
つまり、自分はただただ初夏の圧倒的な明るい陽光に、黒揚羽が美しかった。それだけである。