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ため息俳句番外#21 自由
また、兼好さんの「徒然草」から。
よろづの道の人、たとひ不堪なりといへども、堪能の非家の人に並び時、必ずまさることは、たゆみなく慎みて軽々しくせぬと、ひとへに自由なるとのひとしからぬなり。
藝能・所作のみにあらず、大方の振舞・心づかいも、愚かにして慎めるは、得の本なり。巧みにしてほしきままなるは、失の本なり。(第187段)
以下は佐藤春夫の訳である。
いっさいの技術の道においてその専門家が、たといじょうずでなくともじょうずな素人にくらべてかなずずれているのは、油断なく慎重に道を等閑にしないのに、素人はわがまま勝手にふるまう。これが素人と専門家との違う点である。技術の道に関することのみと限らず日常の行動や心がまえにも、魯鈍に慎重なのは得のもとである。巧妙に任せて法式を無視するのは失敗のもとになる。
此処で兼行さんが云っているのは、どことなくご立派なことを述べているようだが、云っていることは、世渡りの仕方である。佐藤春夫訳は、「巧妙に任せて法式を無視するのは失敗のもとである」と明確にしている。その道の専門家や権威が定めた作法を無視すると、痛いしっぺ返しにあうから気をつけなさいということだ。恐らく、兼好さん自身がそういう目にあったにちがいない。才気走ったふるまいなど愚かしい、人から「愚図で鈍いが、慎重で身の程を心得た奴」だと見なされていると、結果的には得するのだよと。
さて「自由」は「じいう」。現代では「自由」というのは人間にもっとも大切される理念である。現に「自由」のための戦争が継続している。しかし、兼行さんのいう「じいう」は、「思いのままであること」であり、そこから「気まま、わがまま、好き勝手」ということだ。
ソフィア文庫版では、この段の脚注で、「才能よりも世襲を尊重する姿勢は中世には常に支配的であった」と付されている。
この傾向は、現在にも及んで、世の中をくだらなくしている大きな問題である、いや、問題ではなく、・・・案外多くの人々の間では、良き日本のうしくしき習わしとなっている。馬鹿げたことだ。
世襲というのは、まったく愚かしいことで云うまでも無いが、自分が気になるのは、「権威」ぶる人のことである。そんな奴にまで、礼を尽くそうとなんて、阿呆らしい。
「自由」をわがまま自分勝手と解する輩は、その程度の人である。