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#30 クリスマス馬小屋ありて馬が住む 西東三鬼

 自分は宗派は定かでないが、ざっくりと仏教徒であると思っている。
 我が家の墓は、真言宗、本山は長谷寺である。だから何があろうが弘法大師には黙って手を合わすことにしている。
 サラーマンのころ、時折築地の本願寺に足が向いた。広い本堂のちょっと隅っこのあたりに腰を下ろしてぼーとしていると、気持ちが落ち着いてくるような感じがした。遠くに阿弥陀様をみて、堂内の抹香臭い空気を吸っていると、肩の力が抜けてゆくような気がした。
 いろいろな仏さんがいるが、やはりお釈迦様が一番好きだが、怖いところも大いにある気がするから、やはり頼りにできるのは阿弥陀様であると思う。
 この間、金沢に行ったのだが、ほど近くの鶴来町の白山比咩神社に参拝した。鶴来の駅前観光案内所でレンタサイクルを借りて行った、参拝後はすこし町中を見物した。ここにも鶴来別院、真宗大谷派の寺院であるが、井波彫刻に荘厳された立派な伽藍が建っていた。真宗のこういう寺院は大抵本堂に上がって、拝むことができるので、これまでも旅の途中あちらこちらのお寺にお邪魔して来た。ほとんどいつも広い本堂は無人で、ただ奥まったところにおいでの仏さまに向き合って、10分ほど座っていると、よい心持になるのである。鶴来別院でも、手を合わせてきた。
 先ほど仏教徒と云ったが、神社であろうと教会であろうと、人々の祈りの場所には、得も言われぬ雰囲気があって、その空気感に気持ちが洗われるような感じがある。とはいえ、スピリチュアルものが好きというわけではない、ご利益が欲しいということもない。そういうことではないのだ。
 何でこんなことを書き始めてしまったのだろう。
 それは今日がクリスマスであるからだ。
 昨晩は、食後にモンブランを食べた。自分は、ケーキと云えばモンブランなのだ。何ゆえのケーキであるのか、まったくわからない。まだ子供が小さなころは、満員の通勤電車でつぶされないようにケーキをお守りして家に帰ったものだ。その頃は、まだ子供たちが喜ぶ顔が楽しみであったが、今は爺と婆である、お互いに飽き飽きしているのであるが。
 思えばこのクリスマスが、この国でもっとも盛大な宗教的行事なのではないか。不思議な感じがする、なぜこんなことになったのか。わからないものだ。
 それに、子ども二人、両方がキリスト教会で式を挙げた。結婚式場に付属しているとはいえ、これだって妙なものだ。娘の時は、娘に並んでバージンロードとやらを歩いてしまった、なんということであったろう。
 ともあれ、子ども達の頭に神がおいでか、仏がおいでか知らないが、どちらにもあまり関心はなさそうだ。

クリスマス馬小屋ありて馬が住む 西東三鬼

 イエスは、ユダヤの町ベツレヘムで、処女マリアのもとに生まれたという。ベツレヘムの宿が混んでいたために泊まれず、イエスを飼い葉桶に寝かせたとか、聞いたことがある。飼い葉桶のある場所と云えば、厩舎であろうから、馬小屋だったのだろう。聖書のことは、聞きかじりだから間違っていたら、ごめんなさい。
 三鬼は、クリスマスの日、通りがかった馬小屋を覗いてみる。当然のことであるが、そこには馬が住んでいると。
 馬が住むと、擬人化しているところが、ふざけているともいえそうだが、ちょっとほっこりさせる。なんといっても、クリスマスの日であるのだから。
 作為たっぷりの句であるから、信用はしかねるが、クリスマスに浮かれる人たちを遠回しに軽く揶揄しているようにも感じる。

 も少し云うとこの句はどうだろう。

へろへろとワンタンすするクリスマス  秋元不死男

 
 これよりも、同じ作者のならこちらか。

クリスマス地に来ちちはは舟を漕ぐ