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#5 恋のない身にも嬉しや衣更 鬼貫
このところ、上嶋鬼貫『独ごと』がお楽しみである。
岩波文庫の復本一郎校注「鬼貫句選・独ごと」と同じく復本さんの講談社学術文庫「鬼貫の『独ごと』」全注釈を並べて開いて、読んでいる。
句については、「元禄名家句集略注・上嶋鬼貫 篇」(玉城司・竹下義人・木下優 著)が頼りだが、これは図書館から借りたので、何時までも手元にはおけないのでちょっと急ぐのであるが、耄碌した脳みそでは果がゆかないのだ。
上嶋鬼貫(1661‐1738)は、「東の芭蕉、西の鬼貫」と並び称された元禄期の俳人。『鬼貫句選』上巻には、炭太祇が精選した鬼貫の発句三百五十余句を収める。下巻には、自宅内で禁足しながら書かれた東海道の旅日記「禁足旅記」を収録。『独ごと』は、「まことの外に俳諧なし」で知られる鬼貫の俳論・随筆の集大成である。
鬼貫はそういう人である、西と云っても伊丹の人であるらしい。『独ごと』は、随筆風の俳論書である。
大体において、芭蕉系の俳論はどうも俄か俳句ファンの老人の理解では歯が立たないことが多くて、俳論一般を敬遠していたのだが、『独ごと』はおおよそのところは読める気がするし、うなずかされることも多々あるのだ。
その『独ごと』で、こうある。
一七 俳諧理解のこと
我句をおもしろく作り侍らんより、きくははるかにいたしがたし、と古人の詞にも見え侍り。ひたすら修業し侍らん道なるべし。
復本さんの現代語訳ではこうだ。
「自分の句をおもしろく作るよりも、人の句を理解することのほうがはるかにむずかしい」と古人の詞の中にも見える。ひたすら修業するのがよい道なのである。」
初心者というものは、聞きかじりの半端な知識で知っかぶりしてしまって、鬼貫さんのいわれたことなど、とっくに知っていましたなんて、つい口にしそうだが、と人ごとめいて自分のことをいうのだが、改めてそうわかるように言い渡されると、少しは身に沁みて来る。
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恋のない身にも嬉しや衣更 鬼貫
「恋など無縁の身になっても、ついついうれしく感じられるのは、この衣更の季節を迎えられたことだ。」
そんな感じだろうか。
誰にでもわかるこの率直さ。だから、すっきりと共感できる。小生のような老人にはね。
では、また。