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#20 野畠や大鶏頭の自然花 一茶


 秋の七草もよろしいのだが、秋を極める花は、鶏頭であるかもしれない。その証とも言えそうな茂吉の一首。

鶏頭の古りたる紅の見ゆるまでわが庭のへに月ぞ照りける 茂吉

 
 名月と鶏頭、意外な組み合わせであるが、似合いそうだ。
 では、これはどうだろう。

名月や鶏頭花もにょっきにょき 良寛

 名月ではないが、同じく良寛で。

綿は白しこなたは赤し鶏頭花

 今盛んに、我が菜園でも綿が吹いている最中であるので、ついでに挙げておく。

 一茶ではこうだ。

ぼつぼつと痩けいたうも月夜なり  一茶

 「ぼつぼつと」の意味がよく分からない。あちこちに点々と散らばって生えているということか。あるいは、「勃々と」の方であろうか、なんだろう。多分、前の方に近い気はするが。ともあれ、「痩けいとう」は一茶ならではである。



 さて、一茶の鶏頭は野性味をおびてくる。

 標題に掲げたのはこの句。

野畠や大鶏頭の自然じねん花  一茶

 野畑に堂々たる鶏頭が咲いている。
 人の手によらずに生えてきた真っ赤な大鶏頭花である。

 そんな感じか。

 こんなのもある。

一本の鶏頭ぶつゝり折にけり

墓原や赤鶏頭のひとり咲き

四五寸の鶏頭ずらり赤らみぬ

ぞくぞくと自然生えたる鶏頭哉

鶏頭のつくねんとして時雨かな

目指す敵は鶏頭か横時雨

鶏頭の身に引受る時雨哉

鶏頭の立往生や村時雨

鶏頭に卅棒さんじゅうぼうのあられ哉

鶏頭の立往生をしたりけり


 一茶の目に鶏頭がどのように映っていたか、想像できそうな気がする。
 そこで、子規のあの句。

鶏頭の十四五本もありぬべし  子規


 較べてみるとどうであろうか。

 ちなみに、「卅棒」というのは、禅宗で師が修行者を警策で激しく打って、正しい道へ教え導くことをいう。

 鶏頭花というのは、その形状において、とりわけ色であるが、特別に目を引く存在だ。異形ともいえる立ち姿である。それに、強い花だ。アスファルトのわずかな隙間にも生えて花をつける。

 であるので、決めはこの句か。

一本で秋引受る鶏頭哉  一茶