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実感が伴うということ

私の父は昭和のサラリーマンだった。父のことを思い出す時、べろんべろんに酔っぱらい玄関に倒れる姿が浮かぶ。接待で午前様は当たり前。平日の22時より前に家にいると、今日は帰りが早いなと思った。

週末は家にいるものの、よく酒を飲んだ。
夕飯時に缶ビールを7本。飲み過ぎを防ぐため母がビールを買わずにいると、何時であっても買いに出かけた。そのたび母と喧嘩になった。
そのうち喧嘩を避けるために、小学生の私に小遣いを渡し「おつかい」を頼むようになった。昭和は「おつかいです」と言えば、子供でも酒やタバコが買える時代だった。

年齢が上がると母が父の飲酒を咎める理由を理解した。お駄賃は魅力的だったが、このままだと父が病気になる。私が「おつかい」を断るようになると、父は弟に「おつかい」を頼むようになった。

私が中学生の頃の父の飲酒量は、泥酔するほど飲んで帰宅した後に缶ビールを飲むというもので、判で押したように7本飲んだ。どんなに飲んでも空き缶を洗い、水をきるため逆さにしておく几帳面さがあった。起床してシンクの上に並ぶ空き缶をゴミ箱に捨てるのが私の日課だった。

ある週末、父と居間にいた時テレビで健康番組が始まった。
内容は飲み過ぎて肝臓を壊すとどうなるかという解説だったと思う。
「お父さん、飲みすぎるとこうなっちゃうよ」と言ったと思う。父は、テレビを見ながら「そうだなぁ」とだけ言った。
「お母さんはお父さんに病気になってほしくないんだよ。病気は苦しいから」
たぶん父は何も答えなかった。

◆◇◆

それからも父の飲酒は続いた。
単身赴任で家族から離れると、飲み屋の上客になっていたようだ。後に店主から父の常連っぷりを知らされたが「ああ、その飲み方じゃ死ぬなぁ」と素直に思うほどの鯨飲っぷりだった。

単身赴任は定年まで続いた。
再び家族と暮らすようになってから数ヶ月後に「左目が見えない」と眼科へ行くとその場で救急車を呼ばれ、脳腫瘍で緊急手術となった。
検査をしたところ脳腫瘍は胆管がんから転移したものだということがわかった。

手術後の父は寝たきりになった。
父はよく「どうしてこんなことになった?」と言っていた。
「飲み過ぎたから」とは言えなかった。
心の中で何度も「昔一緒に観た健康番組のこと覚えてる?」と問いかけた。「お母さんの忠告聞いてた?」とも。当たり前だが答えは返ってこない。

いきすぎた飲酒の原因は、父の人間関係や単身赴任制度にあったと思う。

私たちは飲むことを咎めるのではなく、飲む理由をさぐらなければならなかった。何より本人が自分に起こっていることを実感しなければならなかった。実感がなければどんな金言も役にたたないのだ。

話は変わるが、子供が親にとって好ましくない態度をとる時、私も含め親というのは脅して叱ることが多い。
例えば「寝ながらテレビを見ると目が悪くなるよ」とかだ。

脅された子供はその場では言うことをきくが、しばらくすると同じことを繰り返す。
寝ながらテレビを見るのには理由がある。その姿勢が楽だったり、単にその姿勢をすることが楽しいからといった理由が。それは子供に訊かないとわからないし、子供自身が、どうして寝ながらテレビを見ようとするのかわかってないこともある。

寝ながらテレビを見る子供に、ソファやクッションといった体をあずけてリラックスできる道具を用意したり、じっと座ってられないのなら、あり余るエネルギーを発散させるためにガムを噛ませてみたり、大人にかまってほしいのかもしれないと何でもいいから話を聞くなど、とにかく試行錯誤を繰り返すことしかできないのだ。

問題行動を自力で言葉にしなければ実感が得られない。
周りの人間にできることはその手伝いぐらいだ。

試行錯誤の何かが響けば、子供は親の言葉から実感を得ることができ、寝ながらテレビを見ることをやめるだろう。響かなければ変わらない。ずっと寝ながらテレビを見続けるだろう。

私たち家族は父に対しずっと脅して叱り続けてきた。
父は自分のことを一切話さない人だった。死んだ時に残したのは仕事で使っていた手帳と携帯電話、数冊の本、そしてスーツだけである。
もっと父のことを訊いていれば、飲酒をやめるきっかけを作れたかもしれない。私たち家族は、言葉を重ねるコミニケーションが苦手だ。
このことに気づいたのは父の死からずっと後。娘を育てながら、ふと、彼女に脅迫めいた禁止しかしていないことに気がついた。
ああ、私はずっと父を脅していた。父のことを何も知らない。

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