【西郷さんとシドニー 4】プチシドニー観光
シドニーの空は広大だ。
真っ青に澄んだブルーは天高くどこまでも続く…。
北に傾いた南半球の初冬の太陽は斜め上から強烈な光を放っていた。
これまでに何度このオーストラリアのパワフルな光に導かれ、救われたことだろう。
迷った時、苦しい時、天を仰ぎ答えを求めればいつも何かしらの気づきを与えてくれる。
「輝彦」
西郷さんの名前にもこの導きが潜んでいるのだろう。
これまでに多くの人の心を照らし、道標となってきたに違いない…。
冬の澄んだ空を見上げ、取り立てて何かを考えるでもなく、ぼんやりと思考を泳がせる。
フィッシュマーケットのベイエリアに空いているテーブルを確保し座った私は、キリッと冷えた空気に太陽の温かさを背中に感じながら、西郷さんご夫妻と阿部さんを待っていた。
まだいくつかのテーブルは空いていたが、日曜日のフィッシュマーケットのベイエリアは12時を過ぎる頃には満席になる。
コロナパンデミックで鎖国状態にあったオーストラリアから観光客は完全に姿を消していたものの、市中感染ゼロのこの時期、規制はなくなり日常を取り戻した地元民で賑わっていた。
阿部さんの声がけでディナーの翌週日曜日に決定したプチシドニー観光は、まずは阿部さんの提案でシドニー名物の一つ、フィッシュマーケットで心地良いシーブリーズを頬に受けての新鮮魚介類とオーストラリア産ワインのランチ、そしてその後は私のお薦め、瀟洒な高級住宅地、リゾートを思わせるバルモラルビーチの散歩と人気のカフェ、ベイザーズ・パビリオンでのコーヒータイムの予定となっていた。
温暖な気候とはいえ、シドニーの冬はそこそこ寒い。
冷えきったステンレス製のベンチの冷たさがようやく体温と交わった頃、大勢で賑わうなか、ひときわ華やかな3人の姿が現れた。
長身ですらっと立ち姿の美しい西郷さんは重い病気を患っているとは思えないほどピンと背筋が張り、一般人ではない「誰か」という気品が漂っている。
横にはご本人は否定していたけれど、若い頃にはアイドルを目指していたのではないかと思うほど可愛い明子夫人。
そして長身でスポーツマン、仕事ができる男の風格を持ち併せた阿部さんがその二人を先導していた。
メンバーが揃ったところで一通りの挨拶を終え、まずはマーケットに魚介類を買いに行く相談をしているところへ、私は車に常備しているブランケットを取りに戻りたいと申し出た。
この冷たく冷え切ったベンチはご病気の西郷さんには耐え難く、体調にも影響が出るに違いない。
しかしながら、驚いたことに西郷さんがそれを制した。
「いや、大丈夫。要らないから。」
「いえ、ダメです。こんな冷たいイスでは体が冷えきってしまいます。車はすぐそこに停めたので何の手間にもならないんです。すぐに戻りますから。」
「いやいや、本当に大丈夫。」
しばしの押し問答の末、明子さんが横からやんわりと助言した。
「瑞恵さんにお願いしたら。」
私と明子さんは目で合図をし、私は足早に車へと向かった。
何ということだろう。
西郷さんほどの方が私の手を煩わせまいと精一杯の配慮をしてくださるとは。
有名人であるご自身に対し「特別扱いする必要はない」とのメッセージであることは明らかだった。
硬く冷たいイスに長時間座り続けるなど今の体調では忍耐以外の何ものでもなく心地が悪かったに違いないのに、周囲への配慮と敬意を怠らない西郷さんの謙虚さにただただ驚き、心苦しくなるほどの感動を覚えた。
スターという大それた人生を生き抜いてきた西郷さんの、これまでの人との向き合い方を垣間見た瞬間、必ずしも順風満帆ではなく、多くの困難をも乗り越えてこられた方なのだろうと想像した。
50年という長い年月、芸能界に君臨し揺るぎない地位を常に保持し続けたその背景には、ご自身にとっての得となる人々への根回しではなく、関わる全ての人々への平等な感謝と気遣いを以って接っするその人格があったのだ。
西郷さんにとっては何気ない、当然の思いやりが向けられた瞬間、慣れない土地での生活、そして治療に際し、私の出来得る限りの精一杯のサポートをしようと心に決めた。
ブランケットをイスに敷き、そこに腰掛けると西郷さんも明子さんも少しホッとしたようだった。
「じゃあ、私は適当に何か買ってきますね。」
仕切り直し、とばかりに阿部さんがいつもの明るく張りのある声で告げ席を立った。
続いて明子さんも席を立ち、共に各地のオイスターやその場で調理した魚介類のフライなどを買いにマーケットへと向かった。
その場に残った私は西郷さんにこのフィッシュマーケットについて簡単に説明し始めた。
「良いお天気で良かったですね。
ここは地元でも人気なんですけど、シティからも近いのでコロナ以前は観光客もたくさん来ていたんですよ。
残った魚なんかにつられてペリカンが来るんですけど、子供ぐらい大きいペリカンがその辺をウロウロしているから圧倒されるんですよね。シドニーならでは、ていう風景に観光で来た方たちはみなさん喜びますね。」
そんななんということはない会話をしていると見知らぬ女性が声をかけてきた。
「あの…もしかして、西郷輝彦さんではありませんか?」
「はい。そうですよ。」
静かに穏やかに笑顔で西郷さんが答える。
「うわ〜っ!!嬉しい!YouTube見ました。治療でいらしているんですよね。頑張ってください!!
あの…一緒に写真を撮らせていただけないでしょうか。」
遠慮がちに申し出る女性に西郷さんは「いいですよ。」と快く答えた。
女性はとても嬉しそうに傍にいたお子さんも引き寄せ、3人で記念撮影となった。
「はい、いきますよ。Say Sydney!!」
「シドニー!!」
きっと女性は私を日本から同行したマネージャーだと思ったことだろう。
通常は西郷さんのような著名人は慣れない土地での大事な治療ともなれば、世話役などを従えて面倒なことは全て任せるものだ。
しかし西郷さんはそういった「偉そうな」ことをしない。
YouTube の動画でさえも企画、撮影、編集、そしてアップロードまで全てをご自身でしていると聞いた時には本当に驚いた。
「えぇ?!全部ご自身でやっているんですか?!編集も?編集はどなたか事務所の方がやっているんだと思いました…。いやぁ…すごいですね…。」
「それがさ、今までFinal Cut Proでやってたんだけど、Premier Proに変えようと思って始めたら最後のところでどうしてもうまくいかなくてね〜。参ったよ。」
「そうですか。私もYouTube やってますけど、そんなに大した編集はしてなくて…。でも一応Premier Proを使ってるんで、もし何か分からないことがあればいつでもお手伝いしますよ。」
「そう!?それは助かるな。でも結局Final Cut Proに戻しちゃったんだけどね。」
私がグラフィックデザイナーで、MacユーザーでありAdobeプロダクトを使用していることを告げると、西郷さんもMacユーザーだと嬉しそうに語られた。シドニー滞在中の西郷さんを頻繁に訪ねるに至ったことの背景にはそんな経緯があった。
阿部さんと明子さんは思ったよりも早く、両手にたくさんの食料を抱えて戻った。
オイスター各種3ダースとフィッシュ&チップス、カラマリ(イカフライ)、ゆで海老に焼きアワビまで。
テーブルに並べて良く冷えたビールと白ワインを開けるとかなり豪華で贅沢な週末のランチとなった。
「お い し い…。」
オイスターを口にした西郷さんはいささか険しい顔をして厳かに言う。
オーストラリアのオイスターが大好きなのだそうだ。
以前仕事でオーストラリアのクイーンズランドに来た際、オイスターと白ワインにはまり一人で驚くほどたくさんのオイスターを食べたという。
はっきり記憶していないけれど、たしか5ダースとか7ダースとか、いやあるいはそれよりももっと多かったかもしれない。
とにかく病気にならないかと心配になるほどの量を食べたと言っていたので耳を疑ったことを記憶している。
4人には多めかと思った食事はチップス(フライドポテト)を少し残した程度で全て平らげてしまった。
食後は建物内に軒を連ねる魚屋を軽く見学した後、私が運転する車でバルモラルビーチへ…。
地元で人気の豪邸が軒を連ねるバルモラルビーチは、高級リゾートを思わせる波が穏やかな湾内のビーチだ。観光客に人気のボンダイビーチやマンリービーチと違い、太平洋に面していないためサーフィンができるような大きな波は立たない。見ているだけで平和な気分になるのんびりしたビーチは家族連れにも人気で夏の週末にはシドニー各所から集まった海水浴客で賑わう。
バルモラルビーチのランドマーク、ベイザーズ・パビリオンはヘリテージにも指定されている1929年に建てられた瀟洒で美しい景観のヨーロッパ風の建物だ。モスマン市役所所有のちょっとしたホールか何かを思わせる大きな建物内は、中央の入り口を境にレストランエリアとカフェエリアに分かれており、広々とした解放感のあるスペースとなっている。
ビーチ側は全面がガラスのテラス風ドアで、青い海、青い空、白いビーチとの一体感のあるパノラマビューに圧倒される。
ビーチカルチャーが反映された店内はシドニーらしい海辺のリゾートといった感じで、ブルーと白のストライプと木目のコンビネーションに観葉植物、とそこにいるだけでホリデー気分が味わえる心地良い空間だ。
冬で人出が少なくなってはいたものの、この日は天気が良いせいか思った以上の賑わいを見せていた。
タイミング良くランチ後に行ったために店内はちょうど席が空きはじめ、待ち時間なくゆったりしたボックス席へ通された。
少し高い位置にあるその席から店内全体を見渡す感じで家族や友人との週末を楽しむオーストラリア人の様子を眺め、西郷さんも明子さんもこの贅沢な空気を存分に楽しんでいるようだった。
お腹はいっぱいでもデザートは別腹。
私が知る限り、お酒を飲む人の多くはデザートを好まない傾向にあるけれど、西郷さんはお酒もデザートもしっかり召し上がる方だった。
吟味したあげく、私たちは4種類のデザートとコーヒーをオーダーした。
クリームブリュレ、ホワイトチョコレートのケーキ、オーストラリア発祥のデザート、ラミントンのチョコレート味とホワイトチョコレート味。
テーブルいっぱいに並んだデザートに更に気分は高揚、デザート好きにとってはたまらない至福の時間だ。
西郷さんがまるで少年のように喜んでいる。
こんな風に何かちょっとしたことに手放しで喜ぶ瞬間、失礼ながら本当に可愛いと思ってしまう。
目を輝かせ、満面の笑顔で、気取らない真っ直ぐな言葉で表現をする。
実はドラマや映画、テレビで見る西郷さんよりもこのオフの状態が更に魅力的だ。
ボリュームのあるデザートに体調を気遣う明子さんがそれとなく牽制すると、満面の笑顔で「いいじゃない」とおねだりをするように応じる。
無邪気な天使のような笑顔を向けられては誰も西郷さんに「No」とは言えない。
ゆっくりとコーヒータイムを楽しみ、外に出た頃にはもう日が傾きかけていた。
だいぶ冷え込んで来ていたけれど、ここまで来たからには是非ともビーチから突き出した小さな島へもご案内したい。
バルモラルビーチと呼ばれるこの地域は実はバルモラルビーチとエドワーズビーチの二つのビーチからなっている。
この二つのビーチを区切る形で突き出たところに小さな島、ロッキーポイント・アイランドがある。
ビーチ沿いの遊歩道から半島へ向かう可愛らしい小さな橋へと進むと、ちょっとした小さな公園があり、さらに奥に進み突端まで行くと視界が開け湾全体が見渡せる。
彼方には顔を付き合わせるように左にノースヘッド、右にサウスヘッド、その中央には水平線が顔を覗かせている。
水平線の向こうは太平洋で、外洋とシドニーを繋ぐ玄関口となっており、ウォータースポーツの盛んなシドニーでは数千人を収容する豪華客船のみならず、個人所有の小さなクルーザーや釣り船、ヨットまで毎日あらゆる船舶の往来がある。
東の空はうっすらとピンクに染まりはじめていた。
島内の小道をゆっくり歩きながらオーストラリアを満喫した夕暮れ、心地よく満たされた様子の西郷さんがぽつりと言った。
「僕たちはさ、新婚旅行というものに行ってないんだよ…。もし行くとしたらこんな感じかな。オーストラリアはいいね…。」
その後に続く言葉を待ったけれど後はなく、なんとなく西郷さんの声の余韻に浸っていた。
こんな穏やかな夕暮れは言葉の隙をスッと埋めてしまう。
ああ、そうか、西郷さんは何とはなしに、明子さんに言っていたのかな。
「これは昔叶わなかった新婚旅行だからね。」
そう明子さんに伝えていたのかもしれない。
皮肉にも、コロナパンデミックによって余儀なくされた少しの休息は二人にとっての貴重な思い出深い時間となったのだろう。
面と向かって言うよりも、こんなさりげない会話で伝える、そんな時もあるのかもしれない。
遊歩道の終わり、突端に近づくと私はちょっとしたエピソードを話し始めた。
「西郷さん、ぜひ、こちらにいらしてください。ここ、ここ。
実はここはいわゆるパワースポットなんですよ!
いや、私にとっての…ですけどね。」
何事かと3人が私に注目する。
「昔、ジムのブートキャンプに参加していたことがあるんです。世間で流行ったDVDのあれではなく、実際に皆でエクササイズするやつです。皆で朝6時に集まって1時間休む間もなくしごかれるというやつなんですけどね。
ある日、そのブートキャンプが終わった後ここに来て、この場所に立ったら、眉間のこの部分がなんというか…チリチリしたんですね。血が通わなくなって痺れた状態にも近い感じの。
運動の後で血が足りなくなったのかも、倒れたらまずいと思って引き返そうと振り向いたんですけど…そうしたらそのチリチリがピタッと止まったんです。
あれ?思い過ごしか、と思ってまた海の方を向いたらやっぱり眉間がチリチリするんです。
で、もしかしてこのスポットなのかな、と思って右に避けたら、なんとまた止まったんです。
そして元に戻るとやっぱりチリチリ。左に移動してもピタッと止まる。
この、正にこの場所だけ何かがあったんです。
なんだかよく分からないけど、不思議だったのでしばらく立ち続けてみました。このスポットにいる間はずっとチリチリが続いていたんですよね。本当に不思議な体験でした。
それで、思ったんです。
ほら、この下、ちょうど岩が真ん中だけ窪んだみたいになっているじゃないですか。そして、正面はノースヘッドとサウスヘッドの切れ目からほんの少し太平洋の水平線が見える。
この場所って、ちょうどじょうごの先みたいに、太平洋からのすごいパワーがぎゅーっと凝縮して集まってきているのかもしれないって…。
ちなみにその後はその状態になったことは一度もないんですけど、でも感じないだけで、本当はいつもすごいパワーが集まっているんだと思うんですよ。
だから西郷さん、ここに来てください。ここで太平洋のパワーを浴びたら、病気なんか治ると思うんです!」
西郷さんが私のおかしな話しを信じたかはどうか分からないけれど、少なくとも私は真面目に信じていた。
きっとオーストラリアの自然、大地の、海の大きなエネルギーが西郷さんの体を治し、癒してくれるだろうと。
高いところが苦手だという西郷さんは少し後ろに下がり、突端は避けて少し手間の岩に腰掛けた。
高さをものともしない明子さんはヒョイヒョイと身軽に突端まで行き一段下の岩まで降りた。
と、その瞬間、勢い余ってバランスを崩し前に倒れた。
「あっ!!」
西郷さんと私が同時に声を上げた。
一瞬視界から消えたかと思った明子さんがスッと起き上がった時には我々は思わず大きなため息を漏らした。
「もう、ビックリしたよ。心臓が止まるかと思った。もう…気をつけてよ。」
西郷さんが胸に手を当てて絞り出すように言う。
実を言えばその先はスペースに余裕はなく、運が悪ければ下まで落ち、大怪我は免れないような場所だった。
太平洋のパワーが明子さんを押し上げてくれたのかどうかは分からない。
私は大惨事を回避した明子さんに西郷さん以上にほっと安堵したのだった。
ピンク色の優しい夕暮れが私たちを優しく包み込む。
それぞれになんとなく居場所を見つけ落ち着いた。
明子さんが静かに海の向こうを見据える。
西郷さんはそんな明子さんの後ろ姿を撮っている。
4人は言葉なく、冷え切った空気と温かな色合いに想いを委ねていた。
コロナパンデミックが襲った爆心地、エンターテイメント、旅行業界。
私たちはそのど真ん中でこの1年間、苦しみもがきながら生きながらえてきた。
それぞれがそれぞれの戦いに挑み、打ちのめされ、癒され、また立ち上がるということを繰り返してきた。
ここにいる我々4人の共通点は何があろうと屈しない根性を持ち合わせていることだ。
まだまだ続くであろう長い戦いに覚悟と諦めのような複雑な気持ちが心を襲う。
往生際の悪い私はいつだってこの美しいシドニーの自然に助けを求め、救われてきた。
これから始まる治療、その効果という未知なる領域。
西郷さんと明子さんにとって命運を分けるこのシドニーという選択は期待と不安のせめぎ合いであったに違いない。
これまでも多くの勝負に挑んでこられた西郷さんにとって、命をかけた戦いという覚悟の裏には想像を絶する複雑な想いがあったことだろう。
今、優しく穏やかなシドニーの夕暮れがお二人にとっての少しばかりの心の休息となるよう…。
オーストラリアの大地のパワーが西郷さんの体を包み込み、癒すよう…。
天を仰ぎ、心に強く祈りを捧げた。