「ベルリン、天使の詩」を鑑賞して

ありがたいことに、透のコミュ「夜は、なにいろ」のなかでモチーフになっているらしい、「ベルリン、天使の詩」という映画の鑑賞会に誘っていただきました。

私はずっと円香のコミュを追って考察をしてきた人間でした。
しかし、その中で絶対に必要になってくるのが、「浅倉透の理解」だということはずっと感じてきました。
特に円香→透の描写は今までに大量に描かれてきたのに対し、
透→円香というのは、あまり描かれてきていないように感じていたのが、ノクチルのシナリオイベント「天檻」が出るまででした。

そこから透のコミュも読むようになって、円香との対比、お互いへの意識、みたいなものを考察することに時間を使っていこう、という考えに至ります。
そのため、私の考察に関しては、透そのものの理解、というよりは、円香を通して考え得る透の内心の一つの解釈、というイメージかなと思います。

「天檻」では、誰かのために歌っているわけではない、自分自身の価値について考えることから逃避しようとしている円香に対して、透は、お金を払って歌ってもらうという行動をしています。
透はこの時点で、円香そのものの色、を見出していると感じました。

そこから、「夜は、なにいろ」を初見で読んだときに感じたのは、
「透は自分の色を自分自身で見つけられていない」ということでした。
この点で、ノクチルの中で、透が一番自分が何者なのかについて、もがいているのではないか、というふうに思いました。
ニュアンスとしては、透が何者なのかを理解してくれる人がいない、というところですかね。
透の中で、「樋口さえわかってくれればいい」っていう言語化はしているものの、実際に透→円香の理解はあれど、円香→透の理解はあまりないのではないか、というふうに最近は感じています。
しかし、透にとって円香は、あまりにも価値をもった、ある種憧れのような存在であるというところは描かれていると思います。
それは、円香のコミュ「フリークス・アリー」と透のコミュ「雪あたりの季節」の対比からも感じられました。

円香にとって演技・お芝居、歌、という表現する行為は、透にはちゃんと色として見えている。
だから、「雪あたりの季節」のコミュで、円香がきちんと自分とは別のキャラクターに入り込んで芝居をしていたことに対して、自分がCMのキャラクターに入り込めなかったことに焦りを覚えたのではないか、と思います。

というところまで感じていたところに、今回鑑賞した映画「ベルリン、天使の詩」を踏まえた解釈を書いていきます。

映画の概要を書いていくことはしないので、観たこと前提で以下進めていきます。

まず、とおまどにおいて、透:天使、円香:人間、なのではないかという印象を受けました。
上記でも述べているように、透は円香に対して、きちんと色を見てると感じているので、透と円香が実世界できちんと実体を持った人間である、ということを踏まえると、透は天使と表現されはするが、円香と同じ人間と繋がれる可能性を大いに秘めている。
透は円香のように色を持った人間として見られたい、という感情を潜在的に持ったのではないか、というふうに感じました。
この点、「殴打、その他の夢について」のコミュで、「ガツンと殴られた」のような表現が出てきており、ここでは「カメラのレンズ」が出てきます。
透はこの解釈で、「レンズを通して、色で殴られた」から、衝撃を受けた、という意味の取り方が私の中では生まれました。
色に殴られた、衝撃を受けた、自分はこの「色」が欲しいんだ、という言語化がなされたのが「夜は、なにいろ」だったのかな、と二つのコミュのつながりが、今回の映画鑑賞で芽生えました。

そして、この色を見つけてくれる存在が、プロデューサーだったのかなというのもまた、この映画とコミュから読み取れるのかもしれません。
円香→透が感じられない以上、透にとってこの理解を求められるのはプロデューサーだったのかなという印象です。
透がプロデューサーに、頑なに「見て」と言っているのは、こういう感覚があるが故なのかなと、腑に落ちた感覚があります。
映画鑑賞後の感想戦で色々な方も仰っておりましたが、この点では、
透:人間、プロデューサー:天使、という捉え方が出来るのだと思います。

円香が、透のことを見ているようで、実は世間一般と同じような見方を透にしている、というふんわりとした感覚が、ダ・カラあたりから芽生えていたので、この透のコミュ周りの解釈を進めることで、腑に落ちたかなと思いました。
同時に、円香はやっと自分の色に理解をし始め、気づき始めたんだな、というふうに「フリークス・アリー」を読んで感じました。

透が円香に対してどういう感覚を描いているのか、は「fuka」でも語られているので、やはりコミュ同士のつながりが読めば読むほど出てきます。

今回初めて、コミュの中でモチーフになっている映画を観るという経験をして、色々な解釈が世の中に広がる中、自分の解釈の補強になったと実感できました。
もちろん、この映画の感想解釈だけでも、色々な種類があり、勉強になるのですが、自分の言語化のためにも必要な分野の勉強なんだなというふうに感じました。

インプットとアウトプットの繰り返しは今後のしていきたいことなので、その最初の一歩を踏めたことに、嬉しさと感謝の気持ちを覚えて、今回のnoteは終わりにしようと思います。

全部を言語化する必要は無いと思うが、残しておきたいものは言語化しておいて良いと思うし、自分がこう感じた、という感覚は誰一人としてかぶることはないが故に思考の過程を残すことには意識的に取り組みたい。
これをこういう解釈の言葉にするのか、こういう感覚を二次創作に落とし込むのか、はまた迷いどころではある。
という感想を以て筆を置かせていただきます。

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