浅倉透と樋口円香の「雪」に対する価値観について
はじめに
初めましての方は初めまして、おなじみの方はこんにちは。
みずちかです。
今回は初めて、シャニマス考察noteを書きたいと思います。
noteは今まで2回ほど書いたことはあったのですが、映画の感想と朗読劇の感想だけだったので、初めての試みになります。
普段は絵を描く人間なのですが、SSも書きたい。でも書くことへのハードルが高い。というところで、「考察noteは?」というアイデアを授けていただきまして、今回のnote執筆に踏み出したという背景があります。
今回考察するのは、
「浅倉透」「樋口円香」両者の「雪」に対する考え方について
となっております。
まずは、この考察するにあたって読んだコミュについて記します。
・浅倉透
➀【夜は、なにいろ】
➁【雪あたりの季節】
③【殴打、その他の夢について】
④ GRAD
・樋口円香
➀【無色】
➁【fuka】
➂ STEP
④ 露光
⑤ 【フリークス・アリー】
こちらのコミュの詳しい解説については、このnoteでは行わないので、是非一読してからこの先のnoteを読んでいただけますと幸いです。
以下、考察に入ります。
考察の終着点
今回の結論は、
浅倉透は、 「捕食者」であり「被食者」である。
樋口円香は、「被食者」であり「捕食者」である。
ということである。
【無色】について
最初の円香の語りに出てくる、「雪は彗き清める」という表現。
彗という字を使っていることに違和感を覚えた。
調べたところ、そもそも「雪」という文字は、元々ヨの部分が、この「彗」という文字であった。
彗:箒のこと。掃き清めるという意味を持つ
↓
雪:万物を掃き清めてすべてを真っ白に覆って、汚れないもの
このような関係性になるということが分かった。
全てを清めてくれる「雪」は、「雪月花」と称して美しいものの代表として位置付けられているそうだ。
また、「汚れた雪には誰も触らない」という表現がこの次に出てくる。
つまり、冒頭で、「雪は万物を掃き清めるが、汚れてしまったら誰も触らない」と言っている。
このコミュでは、「幻想的な雪」というものをノクチルが追い求める姿が描かれている。
幻想:現実にはないことを想い描くこと
とコミュ中で出てくる。
冒頭では、「頭上を過ぎるあの星は汚れた雪玉」という表現もされていることから、
雪:透明で万物を掃き清めるものであるが、
大気中の汚れを纏い地面に落ちていく又は溶けていくもの。
「透明なのは一瞬のことで、汚れてしまいもう透明には戻れないもの」
と捉えていると推測できる。
このことから、
幻想的な雪:透明・綺麗・美しいものである
という解釈が出来るのではないだろうか。
円香のSTEPで、
「汚れるだけ汚れたらもう透明には戻れない」
「私は瀝青に溶けた光」
と自身を表現していることから、
「雪」そのものが、
汚れたもの、透明ではないもの=円香自身
という解釈をしている、と考えていた。
アスファルトに落ちて溶けた汚い光、雪
を自分に投影して、
自分は透のように美しくはなれない、
STEPや【無色】はそういうコミュなのだと、最初は思っていた。
ここで、【無色】でもう一つ重要な話題についても触れようと思う。
雪蛍:雪虫のこと
また、「ストロボ」のこと
最終的に、ノクチルは「幻想的な雪」を、夜の雪をストロボで炊いて撮ることにする。
「その閃光が届く限り、雪が白く灯る。幻想的に」という円香の語りは、
「雪は光を受ける限り綺麗に灯る」という解釈が円香の中に生まれたことを示唆する。
【露光】について
このコミュでは、ノクチルがライブを終えて感想戦しているところから「光」についてフォーカスが当てられている。
透が、ライブの時の光をとても印象的に思い、
帰り道の街頭、撮影の仕事の待ち時間の建物屋上扉前で、
「光」を見る描写が出てきます。
それに対して、円香は「直視すると目に悪いからほどほどにね」という話をする。この点、次の項目にて触れるためここでは次に進めることとする。
撮影の仕事が行われたビルで、屋上から光が観たいと思って屋上へ行くのですが、あいにく鍵が締まっており、扉の隙間からしか光を見ることが出来なかった。
その時、円香は透にこんな言葉を投げる。
「見えたとしてもコンクリートの壁」
透は、「でも光ってるからあるでしょ、空」と返す。
「そりゃあるだろうけど。真上に小さな空くらいは。それはそれで空しいんじゃない」と返す円香。
これは、STEPを想起させる。
コンクリートからは、「瀝青に溶けた光」
真上に小さな空くらいは・空しいからは、「あの日みた空は私の目には映っていなかった」
というところである。
露光:フィルムや撮像素子が光を受け取ること
フィルムと言えば、透のコミュ「殴打、その他の夢について」である。
透は、フィルムを通して、「生きている」「そこに在る」ことを観ようとしている。
擬似体験を求める透にとって、フィルムを通して何かを観るという行為は、幾度となく行われるものなのである。
その対象に、もちろん円香も含まれている。
露光という言葉の意味を調べた時に、フィルムという言葉があったため、
このような説が考えられた。
透はフィルムを通して、円香が光を受けていることを、観ている。
円香の思考を基にするならば、
透が観ている円香は、光を浴びていて「美しいもの」なのです。
【fuka】について
このコミュが一番、透→円香を感じられたのではないだろうか。
しかし、このコミュではそれだけではない。
円香があることをきちんと自覚して言語化している、という点において、
今までの【無色】【露光】を補完してくれる重要なコミュなのである。
「乳白色の入浴剤 甘い香り 溶ける」
「不透明になる」
「そうやって段々 知らなかったふり」
一見このセリフは、
【ダ・カラ】で見えた、円香が透を意識している、
「美しいもの」としてとらえている、という前提から、
自分は透明になれない、だんだん黒くなっていくのだ
という認識の具現化だと思っていた。
しかし、最後のこのセリフでこの考えに疑問が浮かぶ。
「私にできて、浅倉にできないことはない」
このセリフは、今まで円香が言ってきたセリフと逆のイメージを植え付ける。
「浅倉にできて、私にできないことはない」
という今までの概念は、
あくまでも、円香が透を意識していて、透に、「美しいもの」になろうと感じていることの現れである。
しかし、今回の概念は、逆。
つまり、初めて、「透が円香を意識している」ことを「円香が気づいてしまった」と取ることが出来る。
そうすると、今まで、「透明」「美しいもの」として見てきた透が、
「不透明になる」という考え方が出来る。
知らなかったふり、というのも、透が円香を意識しているということに対して、という解釈が生まれる。
そうすると、【露光】にて、「光を観るのもほどほどに」と言ったところにも、透から円香への意識を円香自身が理解して発した言葉なのだと推察することが出来る。
「私がアイドルでいる以上、浅倉をわかろうとするな」
と語っている点で、透をわかろうとする=自分の「美しさ」を理解することになってしまう、ことから逃げたいのだなと解釈することが出来る。
そして、最後には、透が
「なれるかな、樋口に」
と言っていることから、透が明らかに円香を意識し、「同化」しようとしていることがわかる。
これは、今まで円香が透に対して持っていた意識と重なる。
【無色】【露光】を踏まえると、
透は円香に光を観て、「美しいもの」としてとらえており、
円香はそれに気づき、汚れた雪は光を浴びているときだけ幻想的に灯る、
と表現している。
円香自身が思っている現実の自分とはかけ離れて、透が自分に美しさを観ている。
これはまさに「幻想的な雪」ということである。
(そう考えると、Echos06の衣装で円香が「花鳥風月」の「花」を担当しているのは頷ける。「雪月花」と称される存在として透の目に映っているのだろう。)
雪に対して、
透 :透明で美しいもの
円香:ただの汚れた、透明には戻れないもの
という全く逆の価値観が二人にはあることから、この考察は成り立っている。
そして、この考えを以て、最後の結論にたどり着きたいと思う。
【雪あたりの季節】と【フリークス・アリー】の関係について
この2つは、透と円香の「芝居」について描かれた、密接するコミュになっている。
実装順番は恐らく【フリークス・アリー】→【雪あたりの季節】だと認識しているが、
この順番で実装されることで、透が「芝居」へかなりの熱・飢えを見せていることや、円香の「芝居」に追いつきたいと感じていることの示唆である、と感じた。
ノクチルのシナリオイベント「天檻」より透は、円香の表現するものに価値を見出していることがわかる。
【天檻】で価値を見出したのが「歌」であったのが、今回は「芝居」になっている。
また、この点、【fuka】でも二人が同じオーディションを受けるために海外ドラマを観ていることから、二人の舞台が現状「芝居」にあるということがわかる。
【雪あたりの季節】について
このコミュでは、CMにて芝居をする透が描かれている。
この時点で透は、「大きな案件」「でかいの」が欲しい、という気持ちを見せている。
芝居をする円香を目の当たりにして、「喰らいたい」と本能的に感じたのではないか。
これは、「なんか最近、足りなくて」という透のセリフからもうかがえるのではないだろうか。
このコミュでは、「泣く芝居」が求められる。
監督も透に期待して、この芝居を透に求めるのだが、
結果としては、透は泣くことが出来ずに終わる。
このコミュでは、
初めて透の「できない」が現れる、「悔しい」を出す描写があり、
この感情は、次の獲物を狙う、飢えているという表現で締めくくられる。
透にとって、芝居で表現する円香は、「美しいもの」である以上、
ここで止まるわけにはいかない。
喰らって自分のエネルギーにする必要がある。
円香が表現にかける「激情」が欲しい。
喰らいたいと思うということは、「捕食者」であり、
円香の表現物に中てられているということは、「被食者」である。
と言えるのである。
このことは、透のGRADからもうかがえる。
「いいや、どんな形した私って思われても。どきどきしたい。そうやって命の一つになって誰かが食べてくれたら。いたい、泥の中に」
というセリフから、透は生物の循環サイクルに自分が入り込みたいと感じていることになる。
その対象は、円香なのだろう。
「激情」を表現したい以上、飢えている以上、
激情を持っている円香を喰らいたいし、逆に円香にも喰らってほしい。
この点で、捕食者であり被食者であるという自覚があるのだ。
また、この【雪あたりの季節】というコミュで透が演じるのは「雪」という高校生の役である。
透が「雪」=「円香」と感じている以上、この役は円香と「同化」しようとした透の現れなのである。
透の、雪には色があり味がある、という価値観は、
【夜は、なにいろ】の中では、「雪の透明、夜の暗さ」にも色があって、そこに「在る」というところから始まっていると考えられる。
それを経て、
美しいものは透明、だけど、色があり味があり、光を放ち価値を見出す
という考えに至り、
【fuka】や【無色】【露光】からわかるように、
それが「樋口円香」である、と感じるようになる。
円香が「捕食者」であり「被食者」である、というところは、
今までの円香を紐解くと解釈が出来る。
【ダ・カラ】では、直接的に、
「あぁ、なりたい」と、透になりたいという言語化をしている。
ここできちんとそれを自覚した円香。
シャニソンのアニバーサリーのコミュで、ルカとの対話で、
「誰かいんだろ」と言われていたところから、
ちゃんと透を意識して喰らいつこうとしていた、ということがわかる。
ピトス・エルピスで明らかになっている「激情」。
透への憧れがありつつも、円香自身には「激情」がある以上、
それは「透になる」では収まらない。
透を追い越す勢いなのである。
それはまさに、
透を意識していても、喰らう勢いである
という解釈を私はしている。
そのため、円香の方が段階としては進んでいると考えている。
「同化」という捕食行動から、それを「喰らいつくしエネルギーにする」という捕食行動へ移行している点で、円香は実は透よりも高度なサイクルに移行しているのである。
【フリークス・アリー】で、アンダーグラウンドな作品に飛び込んだことで、
段々自分が、他人の目を通してどのような美しさを持っているのか、
に目を向けようとしていることがわかる。
「激情」を持った円香は、今後透を喰らい、超えていこうとする。
そして、透も円香に必死に喰らいついて今はまだ「同化」という捕食行動であるが、
【雪あたりの季節】からも垣間見える「飢えている」は、
いづれ「同化」では収まらず、円香を喰らいつくし超えていく、
という循環サイクルへの移行を示唆している。
二人が「捕食者」である以上、お互いに「被食者」である
これを以て、
浅倉透は、 「捕食者」であり「被食者」である
樋口円香は、「被食者」であり「捕食者」である
と結論付けることとする。
最後に
ということで、最初は【無色】のコミュを紐解こうとしていたところから、
二人の「雪」に対する考え方を考察し、
最後には、お互いが「捕食者」であり「被食者」である、
という解釈をしていきました。
この考察も、まだまだ荒削りな部分があるので、今後ブラッシュアップしていくことになると思いますが、現段階でアウトプットできる範囲はここまでです。
二人の循環サイクルがある限り、二人は更に登っていくだろう、と思います。
しかし、【漠漠】で語られるように、「ノクチルでいる意味は?」と感じ始めている円香は、今後このサイクルから飛び出してしまうかもしれません。
円香にとっても透にとっても、このサイクルが窮屈に感じるときは来ると思います。
【フリークス・アリー】で円香が、アンダーグラウンドに飛び込んだことで、
「何かを演じて表現する」ということを理解し始め、他人の目を通してどう自分が観られているのか、ということから逃げなくなったら、
円香はきっとこのサイクルから抜け出して、自分なりの表現を見つけ、開拓していくでしょう。
今後も透と円香の循環サイクルには目を向け、日々学んでいきたいと思っております。