日記(かつやのとん汁定食(ヒレカツ))
夕方5時、の少し前。スマフォの歩数計を見ると、5,000歩を少し超えたぐらい。毎日8,000歩を歩く日課のためには、あと3,000歩ほど稼がねばならない。
近所をぐるりと散歩して、大体30分ぐらいだろうか。片道にすれば15分ぐらいの場所に、何があったかと脳内の地図を検索する。
ヒットしたのは「かつや」だった。
今の出で立ちは、黒いスラックスに青のポロシャツ。その上から春秋用のジャケットを羽織る。スマフォはスラックスの右のポケットに、財布(100円引きチケット入り)は左のポケットに、読んでいる文庫本はジャケットの左ポケットに入れる。目的地へは、これだけあれば十分。
玄関で鍵を手に取り、扉を開けて外に出る。秋の夕暮れは肌寒いというほどでもなく、しつこい暑さの気配を帯びていた。
* * *
まっすぐに向かえばもっと近いのだけれど、日課のために少し遠回りをして向かう。住宅街の細い道を、頭の中の方位磁針を頼りに歩く。近所にありながら、ずっと行ったことないガラス張りの洒落たカフェを横目に、大通りへと出る。
大通りをしばらく南へ下っていくと、オレンジ色の看板が見えてくる。まだ早い時間だし、空いているだろうという算段があった。通りから店内を眺めると、カウンターに2人、テーブルに2組が座っていた。
こういう店らしい手動の重たい扉を引き開け、案内された通りにカウンター席へ就く。湯呑みに注がれた冷たいお茶を受け取りながら、あらかじめ決めておいたメニューを注文する。
「とん汁定食の、ヒレカツをください」
注文はいつもこれだった。ポケットに入っている財布の中の100円引きチケットは、これを注文して引き換えに貰ったものだ。当然、その『とん汁定食(ヒレカツ)』を食べたときだって、同じように手に入れた100円引きチケットを使っている。
ジャケットのポケットから文庫本を取り出す。ファストフード店で注文してから料理が出てくるまでのわずかな時間に、ほとんど身の入らない読書をするのが好きだ。カバーの折り返しを挟んだページを開き、前回どこまで読んだのかを辿る。物語の中では、主人公のコーティーが宇宙船で冒険に出掛けるところ(序盤も序盤だ)だった。頭の中で音読するように読み進め、だいたい3ページ。『とん汁定食(ヒレカツ)』が提供される。コーティーは冷凍睡眠から目覚めたところだった。
手前左側にご飯。奥には皿に盛られたキャベツ。そこに添えるようにこぶりなヒレカツが2枚。右側の椀は『とん汁定食(ヒレカツ)』をそれたらしめるとん汁の椀だ。大きくて、蓋までついている。
椀の蓋を取って、ひっくり返して盆の隅に置く。卓上の割り箸をひとつ取って割る。ささくれを適度にこそいで、無言で合掌(いただきます)する。
まずはとん汁から。適当に箸を突っ込んで、最初に出会ったのは大根だった。まるで冷めていない熱々のそれを口に運び、火傷しないように空気も食べる。ついで汁を一口。そうして口の中が温まったら、ヒレカツに向かう。脂身の少ない、赤身っぽい肉とささくれて攻撃的な衣。そこにソースの濃い味が合わさって、すぐさま白米が欲しくなる。白米を頬張れば、今度は汁気が欲しくなって、とん汁へと手が伸びる。
こうして最初の一歩(一口?)を踏み出せば、あとは自動的に食事が進んでいく。とん汁、ヒレカツ、ご飯。とん汁、ヒレカツ、キャベツ、ご飯。キャベツは量が多くないから、大切に食べないと……。とん汁、ヒレカツ、ご飯。とん汁、ヒレカツ、キャベツ、ご飯。……まるで数学的帰納法みたいだ。
ヒレカツを1枚食べ終えて、ご飯が6割ほど残っている。ヒレカツだけでご飯を消化しようとするには、若干心もとない。とん汁、ヒレカツ、ご飯。こういうとき、ヒレカツが少ないと怒る人は、ヒレカツ定食を頼めばいい。そちらはヒレカツ3枚だ。とん汁、ヒレカツ、キャベツ、ご飯。この定食のメインはあくまでとん汁。ヒレカツ定食に比べるととん汁が小ではなく大になっている。とん汁の量の差がヒレカツ1枚と釣り合うか、なんてことは考えない。ヒレカツが1枚少ないと知ってなお、私はこのとん汁定食を食べ続けている。
キャベツの配分を間違えた。ヒレカツよりも先に食べ終わってしまった。ご飯の配分も間違えた。ヒレカツを食べ終えてなお2割程度残っている。それでもとん汁、とん汁がある。ヒレカツに取り残されたご飯を、慈悲深くも受け止めてくれるとん汁。ご飯、とん汁、ご飯、とん汁……。そういえば、子供の頃は、味噌汁椀の底に溜まってる大豆の欠片(?)みたいなやつを毛嫌いして、味噌汁を最後まで飲まなかった。麦茶の底のほうも好きではなかった。
食べ終えて、ふたたび無言で合掌(ごちそうさま)する。脇に置いたままの『たったひとつの冴えたやりかた』をポケットに仕舞い、ズボンのポケットから財布を取り出す。伝票と一緒に100円引きチケットを出し、736円のお会計に対し1,041円を支払う。お釣りの305円を受け取り、100円引きチケットも受け取り、レシートはすぐに捨てる。
「ごちそうさまです」
* * *
外に出て、スマフォの歩数計を見る。6,800歩。大体の目論見通りだった。このまま真っすぐ家へと向かえば、日課の8,000歩を達成できるだろう。
来た道とは逆、大通りを北へと歩く。空はすっかり暗く、背後を振り返るとわずかに明るさが残っていた。もう一度振り返って歩き出し、ふと、家のトイレットペーパーが切れかけていることを思い出した。
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