日記 #86
究極の肯定は「生きていなくてもいいんだ」である、という話。
「生きているだけで偉い」ほど雑な肯定はない。自己肯定感が得られないことで苦しんでいる人が、なんの根拠もないこの言説を信じられるはずがない。
大前提として、人は偉くても、偉くなくてもよい。「偉い」というのは、その場を支配するルールの上での話に過ぎない。たとえば「会社」であれば、その会社を支配するルールの中では上司が「偉い」。たとえば「ギャンブル」であれば、親は子よりも「偉い」。そう、ギャンブルの喩えは言い得て妙だ。つまり、「偉い」という感覚はゲーム的だということ。
別に、ゲーム的であることを否定しているわけではない。ただ、ゲームは所詮、ゲームである。つまり、ルールが適用される範囲は限定されている。会社から一歩外に出れば、賭場から一歩外に出れば、内部を支配していたルールから脱することになる。会社も賭場も、人生の一舞台に過ぎない。
だから、基本的には自分の人生は自分のルールに従って生きればよい。例外的に認められないのは、自分の人生のルールによって他人の人生のルールを犯すような場合だ(一般に「犯罪行為」と呼ばれる)。
自分の作ったルールで支配できるのは自分だけだ。だから、人生というのは本来孤独なものだ。その孤独に耐え兼ねた人々が、自分のルールを他人に適用しようとして、または他人のルールを自分に適用しようとして、苦しんでいるように見受けられる。
「孤独である」という視点を持つと、生きているか否かさえも些末な問題であることに気づく。親より先に死ぬのは親不孝だろうか。自殺は絶対にいけないことだろうか。そのルールを課したのは誰だろうか。ありもしない他人の視線を幻視して、自分のルールを歪めていないだろうか。そうやって自問してみよう。
ただ、死ぬのは絶対的な不可逆性を伴う。それだけは忘れないほうがいい。死ぬことだけは取り返しがつかないから、積極的に死のうとしている人がいたら、よくよく考えたほうがいい。そうして考える中で、生きていないと守れない自分のルールができたら生きればよい。どう考えても、生きていないと守れないルールができないようであれば死ぬのもいい。ただ、死ぬことでしか守れないルールがあるのだろうか(憧れの「死に方」がある、といった場合か)。
つまり、何が言いたいかと言うと。
偉くても、偉くなくてもいい。
生きていても、生きていなくてもいい。
自分の好きなように、生きるも死ぬも、選べばいい。
以上
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