苦しみの箱、カラオケ

私はカラオケが大好きだ。音が詰まった箱。誰もがその空間ではアーティストになれる。素人の自己満をいくら垂れ流しても誰にも何も文句を言われず、採点のコメントはやや贔屓気味に褒めてくれる。

気心知れた友人と歌って騒ぐのもまた一興。一人でじっくり歌唱に耽るのもまた一興。恋人とデュエットするのも乙だろう。

楽しいカラオケ。楽しいイメージがこびりつくカラオケ。イメージ。笑顔のイメージ。 ここでは語られ尽くされた楽しさの話はもうやめにする。本当の苦しさの話をしよう。笑顔溢れるカラオケのイメージに押しつぶされ、ひしゃげた苦しさの話。
カラオケが苦痛なとき、あなた方はどうして苦痛を感じているのか。どんな時、どのように苦痛なのか。カラオケが好きなのに、帰りたくて仕方がない時、あなたはどうして帰らないのか。

私は、「あまり親しくない知人」とのカラオケが異常に苦手だ。普段友達や一人で利用しているあのカラオケの空間の時間感覚が、著しく歪んでいるように感じる。精神と時の部屋にでもいるような。何回スマホの時計を見てもせいぜい十五分ほどしか進んでいない、あの密やかな絶望感。いつまでも鳴らない退室十分前の電話。板に挟まれた「フリータイム」と印字された感熱紙。

大体、大して親しくもない人はなぜ「もっと仲良くなりたい」からとカラオケに誘うのか。あの空間が恐ろしくないのか。恐ろしがっているのはどうせ私だけなのだが・・。しかし、そもそも人間と友好関係を深めたいというのならまずは映画なり美術館なり互いに「共通言語」があるものを計画立てた方が絶対にいいと思うのだが、どうだろうか。映画なら鑑賞時間無言でいいし、上映後映画の感想なりで話すことができる。美術館もあまり相手に意識を向けなくていいし、話しかけられたらところどころ絵の感想を言い合えばいい。美術館はうるさくすることがそもそもマナー違反なので、何か喋らなければ、と焦る必要もない。

そういう「感想」を言い合えるところにしてくれればいいのに、カラオケときたら最悪だ。まず密室で、共通言語がゼロの中スタートする。

選曲もあまり親しくない知人となればほとほと気を遣う。相手の好きなアーティストの曲を知らなければ乗ることもできないし、逆に相手側が知らない曲を間違えて入れてしまって「この曲知らないけどなんかいいね〜ふ〜ん〜・・」と微妙なフォローとその後の歌唱中のより微妙な空気が体に刺さりまくって辛い。

一番から二番にかかる間奏中無言なのが気まずくて疲れてしまうし、無理くり明るいキャラを装って感想中も喋るとそれはそれで時間が足りなくてすぐ歌が始まってしまう。 逆に相手側が歌っている時も現実逃避にスマホを触っていいのか(友達とカラオケに行く時は普通に触る)わからず、かといって歌っているあいだ下だけ見てるのも失礼なのかもしれないなと思い、結局画面を凝視して明るすぎる光に網膜を焼き、ニコニコしながら首を曖昧に振って今楽しいですよ〜と全身を使って訴えることに従事している。
途中で笑顔を形作る筋肉がピクピク痛みを訴えてきても我慢する他ない。接待なのだから。親しくない人と行くカラオケは接待なのだ。

ドリンクバーにおかわりを汲みに行く時、トイレに行く時が唯一の安心できる時間だ。この時間を極力増やすため、ドリンクバーはバレない程度に少なめに注ぐし、膀胱にできるだけ力を込めて「トイレに行きたいかもしれない」という信号を脳に送るよう努力している。
したくないけど嘘ついてトイレ行けばいいじゃないか、と思うかもしれないが、あまりにも嘘すぎる嘘をつくと失礼な気がしてくるので、嘘すぎない範囲で嘘をつけるように膀胱に力を込めて「排尿、したいかも・・」と脳を騙しているのだ。
自分を騙してまでこの場から一時的にでも脱出したいという大袈裟すぎるほど逼迫した思いがあなた方にわかるだろうか?哀れに思うかもしれない。好きなだけ思うといい。私が哀れなのではない。あなた方がこの細やかな苦しい情報を拾うセンサーが退化しているだけなのだ。遅れているのはあなた方だ。それは冗談だ、劣等なのはこの私だ。さっさとこのセンサーが退化してくれることを祈る。

途中で帰る口実を何回も考え、脳内でシミュレートしてみる。親が急に来たから、水道管が壊れたから、バイトがあるから、荷物の受け取りがあるから・・。そんなことを考えているときに限って相手側は盛り上がって来ており、帰るに帰れない状況が作られていく。

しかし、終わらない日はないし、やまない雨もない。カラオケがじきに終わる。終わった、と達成感と同時に、金銭も発生しないのになぜ私はこう労働じみたことをしているのだろうかとふと徒労感に襲われる。それはとりあえず考えることをやめる。
解散して一人になった時歩く、薄暗い道がとても好きだ。本屋に入ってみたり、思い思いの寄り道をしながら歩を進める。親しい人と行動するのもそれなりに疲れるのに、親しくない人との行動はより消耗する。体力戦だ。そんな戦いを終えた自分に、ささやかな褒美と称して贅沢をすることが許されることが、唯一のいいポイントかもしれない。

そんなに苦痛なら誘われても行かなきゃいいじゃないかと思われているやもしれない。そう思うのは山々だし、実際私もそういったイベントをなるべく避けて生きてきているのだが、全て避けられて生きてこれたならそう苦労はそもそもしていない。
物には成り行きというものがある。外堀を埋められて身動きが取れないことだってある。そこそこの年齢の方々なら総じて同意してくれることだろう。私はまだピチピチの二十歳だが、そこのところを完全に理解している。と同時に、そんなしがらみに諦めて従属するものか、嫌なものは嫌だ!という子供じみた反抗心も少しながら持ち合わせている。

二十歳という年齢は現代ではまだまだモラトリアムといっても大丈夫といえば大丈夫な気がするので、もう少しばかりは反抗心を生かしておきたいなと思う。同僚と仲良くなりたくてカラオケに誘うのが大人なら、それを断る子供側でいたいものだ、いつまでも。

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