Terry Lireyさんの音楽を聴いて@Ambient Kyoto
テリーライリーさんとサラさんのライブから一夜明けて。。
お二人の奏でる音楽によって、高められ熱された温水が、自分の内側から突然溢れ出てきた瞬間から今まで、、わたしの内側は開きっぱなしだ。
あのライブ中の、初めての経験。
この3年もの間、ひたすら自分と自分の痛みと向き合い続け、占いを学んで深く深く読み込み、糸口を探る毎日が、苦しくてたまらなかったところ、、全くの別ルートが開いた瞬間。
境界線がないからこそ、音の流れの中に没入し切ることができるって、そんなこととっくに忘れていたけど涙、関わる人との境界線が全く無くなってしまう普段の自分の生きづらいポイントが生かされ、自分の外の音に自分の周波数が自然と合った?ことで、自分の内側が開かれて。
そこから我が身を委ねる、ひたすら委ねる、音の流れるままに、水のように、雨のように、したたるままに。そんな超感覚的なニ時間を経て、、
わたしの中で、何かが変わった。
テリーさんのミュージックを聴いてる最中、
わたしの中に、次々と思考が浮かんでくる
言葉を忘れたくないわたしは、
それをいつものようにホールドしておこうとした。
でも次の瞬間、また次の思考が流れてきて、その時にまだ前の思考をホールドしていたら、
そこで流れが止まってしまってる事に気づいて。
そしてわたしは、毎日外側の現実がまた怖かったり、傷ついたりすると、自分を守るために、背中を丸めて絶対にホールドしようとしているなって。
自分という小さな我を。。
でも、そうするとものすごく苦しくて。
傷ついた傷は、本当は癒やされたかったり、
早く忘れられたいのに、
わたしがしっかりそれをホールドしてるから、
なかなか癒やされなくて、傷はすっかり膿んでしまっているんだって気づいた。
そう、傷が癒されるという流れを堰き止めてるのは、他でもない自分だった。
でも、このコロナ禍の3年間の間に、
その癖がいつの間にか強くなった気もする。
いつだって嵐さえ過ぎるのを待てば、
あるいは冬から春に移り変わるのを待てば、
また安心して外に出られていた私たちは、
全体から切り離され、閉じ込められた恐怖を味わい続けた事で、
野生の勘なるものや、全体の一部だという感覚や、信じて委ねるという感覚が、
気づかない内に、鈍ってしまっていたのかもしれない。
もしかしたら、自分を開くということに、
気づかない内に、臆病になってしまっていたのかもしれない。
でも、流れ続けるテリーさんの音楽を聴いていたら、何をしても完全に開くことがなかった自分を開き、もう一度、この身を自分以外の何かに完全に委ねられている自分がいた。
こんな自分、いつぶりなんだろう。涙
涙が止まらなかった。
何度でも…大丈夫なんだって思えたよ。
テリーさん、サラさん、ありがとう✨
お二人の音楽を知れたこと、ここに導かれたことに、心から感謝しています。