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理解の外側から内側に入ること~2023年の傑作『ニモーナ』について

※ネタバレあり。

LGBTQや多様性について語られるようになった現代。その主張は今や社会的な活動に留まらず、各界のアニメーションや映画作品にも及んでいる。
あのウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオも近年は業界の中心でそのような意図をベースにした新作を次々と発表している。

ニモーナ』はまさしく現代の価値観のアップデートをテーマにした傑作だが、同様なテーマの作品の中でも、さらに一線を画している。


モンスター、ヴィラン、それ以外。

この映画の素晴らしいところは、主張の対象に名前のつけられた人達を含まないところだ。

例えば、差別というキーワードが会話に出ると、まず”に対する差別なのか”という部分が存在していることになる。同性愛者、黒人、白人、障害者、男、女………。

『ニモーナ』では差別の対象にそれらの現実的な特定の語彙を含まない。あるとすれば、それはモンスター、ヴィラン(悪)という得てしてストーリー性の強いワードに置き換えられている。

『ニモーナ』のテーマは、自分にとって理解できない存在をどう理解していくかということにあり、そこにカテゴリは存在しないのだ。


未知のものを言葉で括るということはとても簡単で、ラクである。謎の少女がサイやらダチョウやらクジラやらに変身することを知れば、「一体こいつはなんなのか」ということを深く考えるより先に「取り敢えずモンスターという言葉が当てはまるよね」としておけば、自分の中では「この少女はモンスターなのだ」と納得させることが出来る。
いわゆる「レッテルを貼る」の”レッテル”とは、理解できない存在を自分自身の中で無理矢理納得させるための道具だ。

この物語は、そうしたレッテルを貼らないことを伝えている。
それが分かるのは、その心情描写の素晴らしさからだ。


外側から内側へ―他者を理解するための緻密な心情変化

理解にはある程度の時間が必要になる。

序盤、主人公のバリスターはニモーナに対し「”普通の”人間の姿でいてくれ」と要求していた。
彼は自分に味方してくれるニモーナをモンスター扱いすることは出来ないが、だからと言ってどこにいても構わずに変身しまくる彼女のことをどうしても受け入れられない。それは見た目の差別というよりも、理解が出来ない未知の存在として彼の目に映っていることの方が大きいだろう。その結果として出てきた言葉が「人間の姿でいてくれ」である。

この時点でバリスターにとって、ニモーナとはその正体を明らかにしないと気が済まない存在であった。しかし、当の本人は「私はニモーナ」としか語らず、自分の力のルーツについても誤魔化している。ニモーナの取り付く島もない態度によって、ここに彼女の深い傷が隠されていることにバリスターはまだ気付かない。

そして物語中盤。バリスターはニモーナの傷を知ると、恋人とも訣別する覚悟で敵に戦いを挑む。ここでバリスターはニモーナ自身に「見る目が変わった」と言われている。

理解できないものを理解しようとする時、人は目に見える結果がある外側から問いかける。どうしてそんな見た目なのか? 何故そんな行動をとったのか? 今分かっていることだけをヒントにあれこれと訳を聞いてしまうものだ。

バリスターはニモーナに刺さった矢を抜く時、初めて彼女の内側から問いかけた。人間とは見た目のかけ離れたピンク色の破天荒な動物ではなく、バリスター自身も感じることが出来る痛みという共通点において、あまりにも大きな自分との違いを知ったのである。

ここからバリスターのニモーナを見る目は、傍若無人に振舞う能力を持つ謎の少女から、呪いをかけられた孤独な存在へと変化していき、彼女と共鳴していくことになる。
そして、あくまでヴィランであろうとするニモーナの在り方も、バリスターとのかけがえのない関係性へ変化していく道筋が出来ていくのだ。


また、差別に繋がる表現についても非常に巧みに描かれている。

「闇に生まれしものは闇に帰れ」―。
ヴィランの象徴として出てくるこの台詞は、生まれながらに悪たる存在があることを肯定する排他的レイシズムのイメージに結びつけられる。
人の価値観の変化をテーマにしている本作においては、悪と名付けられたものは絶対悪であり、排除する明確な理由をつけて良いという徹底した敵側の思想を見事に表現している言葉だ。

グロレスはニモーナを受け入れていたにも関わらず、母親の「モンスターよ」という言葉、そして村人が一斉にニモーナを攻撃し始めたところを見てその心を変えてしまう。もしかすると、これは一対一の関係のままでいれば起こり得なかった結末なのかもしれない。

というのも、この作品は大衆心理についても上手く描いているからだ。

バリスターが暮らす国は、中世的な雰囲気とSFが混ざっている。
チップも全て電子マネー化されており、国中の至るところにサイネージ広告がある一方、騎士達は重い中世風の鎧を身にまとい、剣で戦う。

騎士学校の校長が真のヴィランであった訳だが、悪に走った動機は新しい価値観への反発である。グロレスの在り方を妄信した校長は、時代が変わることを理解できなかった。

その結果、サイネージ広告では鎧をまとった騎士がモンスターをやっつけたり、立派な騎士になることがであるというような内容が当たり前のこととして流されている。まるで古い価値観を最新の技術で拡散していくかのような表現は、プロパガンダが容易くなった現代に対して警鐘を鳴らしているようにも思える。

実際、民衆が広告のイメージや学校の発信に対してかなり影響を受けていると分かる描写が多い。一人が理解を示してくれても、周囲の環境次第では反対側に流れてしまうこともあるマジョリティの難しさが表現されている。



『ニモーナ』は説教臭くないのが良いところだ。しかし、それだけの感想に収まらない、何かもっと核心的なテーマを感じている。

人間は全てに平等に接することは難しく、誰でも受け入れるという行為には力を要するし、自身の知らない感覚に対して身構えることは致し方ない部分もある。無意識の差別でどこかで誰かを傷付けてしまうことは、誰にでも起こり得るのだ。

重要なのは、始めから良くあろうとすることよりも、変わることなのだ。

これからの時代、世の中はより多様化してくることは間違いないだろう。その時、全く理解できないものと正面から向き合わなければいけない時が、いつかきっとくる。
『ニモーナ』はそんな時に手助けをしてくれる映画になるのではないだろうか。

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