日本国内の海外ドラマ市場における「女子ドラ」という呼称について
きょう3月8日は国際女性デー(International Women's Day)。
わたしの戸籍は男性で、身体も男性。DSM-5で自己診断をする限りでは性別違和(Gender Dysphoria)に該当していそうなのだけれども、ホルモンを打つ気も手術をする気もないし、自分の代名詞が仮にhe/himであってもよいと思っている(一時期はthey/themと表明していたが、he/himであれthey/themであれshe/herであれ、そもそも代名詞を表明すること自体に対するわたしの中での考えがまとまっていない状態というか、どこか収まりの悪さを感じてしまうので、いまはなにも表明していない。いちおう書いておくと、これはもちろん、代名詞を表明することそれ自体や代名詞を表明している人に対する攻撃的な意図やネガティブな意図はなんら含んでいない)。
しかし、わたしのジェンダーがどうであれ、全世界の女性がおかれている状況に対して黙っていることなどできず、それにどう抗っていくか、抑圧をどう消し去っていくかということはわたしの人生においてつねに切迫した問題、壁となって目の前に立ちはだかっている。その壁はとても残酷で卑劣で、その壁のせいで抑圧されているということを知っていながら壁の強化に尽力している人すらいる。そういうことをしている人は男性とは限らない。これまでの歴史でさんざん言われてきたことだとは思うけれど、これは女性と男性の戦争ではない。おそらくその構図を採用して得をするのはまさに女性差別によって利益を得ている人たちだと思う。女性と男性の戦いという構図にすれば、既得権益や既存の権力をもっている男性側が有利になるに決まっているため、その男性側についている人たちが得をすることになる。だからこの罠は回避するのがよいと思う。
閑話休題。
なにを書きたいのかわからずすぐ迷子になってしまうので、今回の記事でわたしが書いておきたいことを先に書いておこうと思う。それは、「女子ドラという呼称を再生させるのはどうか」という提案だ。ここからは完全にわたしの印象論が続くことになる。精緻な調査はされておらず、海外ドラマがちょっと好き(?)な個人の約15年間くらいのぼんやりした薄い経験から立てた仮説を書くだけにすぎない。
さて、そもそも海外ドラマにおける女子ドラとはなにか。
困ったことに、Googleで「女子ドラ」と検索してみると『もしドラ』が検索結果の最初に出てくるし、ほかにも「ドラ女」――中日ドラゴンズが好きな女性――を自称する方のYouTube動画が出てきたりと、大変なことになっている。わたしは、女子ドラという呼称や女子ドラそのものがいまの時代では廃れているものだという認識のもと検索をしたわけだけれども、まさか『もしドラ』が最初にくるほど廃れているとは思わなかった。ここまでくると、「女子ドラという呼称などそもそも存在していなかったのではないか」といったマンデラエフェクトに似たような感覚さえ覚えてしまう。が、ここでいろいろ慣れない調査を進めることで疲れてしまって記事が書けなくなってもいやなので、ここはもう勢いで書くことにする。
女子ドラとは一般的に、女性たちが主人公で、恋でも友情でも仕事でもてんやわんやといった展開を主軸とする、視聴者も女性を想定しているドラマ群のことだといってよいと思われる。代名詞的作品をなにか一作挙げてみてとなると、やっぱりSATCこと『Sex and the City(セックス・アンド・ザ・シティ)』(1998~2004)が適任なのではないかと思う。また、最近TikTok経由で再ブレイクしているといううわさのレナ・ダナム(Lena Dunham)による『Girls(ガールズ)』(2012~2017)も一時代を築いたといってもよい。『Girls』はわたしの人生においてもとりわけ大切な作品で、好きな海外ドラマの殿堂入りを果たしている。記事のサムネイルに使用したのもこの作品のシーズン1エピソード1のひと場面。
そんな女子ドラだが、ジェンダー・バイアスやアンコンシャス・バイアスをなくしていこうとしたときに、そもそもこの「女子」という言葉を使うのはいかがなものかという問題が出てくる。
また、『SATC』や『Gossip Girl(ゴシップ・ガール)』(2007年~2012年)、そして『Girls』――つまり女子ドラの代表的作品たち――で描かれているのはおもに「美しい」「白人女性たち」の活躍であり、そこには身体的、人種的多様性がなく、ルッキズムやレイシズムにもつながるおそれがあるという批判もある(『Girls』の主人公はいまでいうボディポジティブを体現しているキャラクターではあるものの)。実際、『The L Word(Lの世界)』(2004~2009年。最終回の放送日はなんと2009年3月8日だった)は2000年代にレズビアンの日常を克明に描いた画期的な作品である一方、ルッキズム的な面があるという批判もあった。映画の話になるが、アン・ハサウェイ(Anne Hathawey)主演の『The Devil Wears Prada(プラダを着た悪魔)』(2006年)の続編がつねに待望されていながら結局いままで製作されていないのも、この点が関係している。似たような話は、『SATC』の続編である『And Just Like That…(セックス・アンド・ザ・シティ新章)』(2021年~)が製作されはじめたときにもあった。本シリーズの大人気キャラであるサマンサを演じていたキム・キャトラル(Kim Cattrall)が当初続編にまったく出演しなかったのは、サラ・ジェシカ・パーカー(Sarah Jessica Parker)との不仲だけが原因ではないだろうということは、当時の記事を読むとわかる。ただ、これら多様性にまつわる問題については、たとえば『The Bold Type(NYガールズ・ダイアリー 大胆不敵な私たち)』(2017~2021年)や『Harlem(ハーレム)』(2021年~)といった作品がすでにアップデートしている。そこにはもちろん、既存作品の続編である『And Just Like That…』や『The L Word: Generation Q(Lの世界 ジェネレーションQ)』(2019~2023年)も含まれる。
となると、やっぱり問題は「女子」という単語をどうアップデートするかということになりそうだ。
そもそも、「女子ドラ」という呼称は、受容論的な視点からつけられたものでもあったように思う。つまり、女子ドラを受容する、視聴する者として女性を想定しているという点だ。けれども、たとえば男性であるわたしとてこれまで女子ドラでどれだけ勇気をもらったかわからない。それまでもさまざまな物語に感動したことは数えきれないほどあった。けれども、いわゆる「キャラクターに共感する」といった感覚を明確に味わったことはなかった。そんなわたしが、女子ドラ(その多くはアメリカドラマだ)を見ているときには自分のさまざまな感覚(?)がすっとあるべきところに収まったかのような錯覚を覚える。これがキャラクターに感情移入するという感覚なのだろうかと思うことがある。それはほかのなにものにも代えがたいところがある。
同じような人、つまりジェンダー・アイデンティティとして女性と明確に打ち出しているわけでなくても、女子ドラとされる作品群にエンパワメントされた人たちはいて当然だと思っている。となると、受容論的観点から女子ドラという呼称を継続して使う意味は薄れていく。先にも記したように、女性差別をなくしていくための戦いは、決して女性と男性の争いというかたちをとるとは限らない。女子ドラにエンパワメントされるのが女性だとも限らない。それなら、フェミニズムやアンチセクシズムをテーマとした女子ドラのメインキャラクターたち=女性たちが既存社会の抑圧と戦っている作品という意味で、「女子ドラ」という言葉を使っていくのがよいのではないか。誰がおもな受け手であるかということとももちろん重要ではあるけれど、少なくとも作品それ自体が女性をエンパワメントするようなメッセージを打ち出した作品であるならば、堂々と「女子ドラ」という呼称をむしろ使っていくべきなのではないか。
また、「女子」という言葉それ自体については、たとえばNHKのメディア研究部にいる人ですらその言葉にかこつけてミソジニーをたれながしているわけだけれども、こういった蔑視をはねかえす意味でも、そうした蔑視的用法から奪取することが重要なのではないかと思う。クィアという言葉が当事者たちによって奪取されたように、女子ドラにおける「女子」という言葉も「女子ですがなにか?」というくらいの感覚とともにポジティブな意味合いで女子ドラファンの当事者が積極的に使っていくとよいのかもしれない。
この点については、昔の女子ドラも、いまの女子ドラも、セクシズムやミソジニーに対してそうした抗いをなんなくこなしてのける力をもっているとわたしは思う。
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