日記:2024年12月18日
日記の日付をいつにするか、いまだに悩む。いま、これを書いている時刻は12月18日の午前2時23分なので、日付というものを優先的に扱うならば、この日記の日付は18日ということになる。けれど、わたしの感覚としては12月17日の深夜であり、寝る前であり、ここに書くことには17日の行動内容も含まれるかもしれないことを考えると、この日記の日付は17日にしたほうがよいともいえる。ただ、そもそもそれは朝起きて夜に寝るといった「規則正しい生活」とかいったものを前提とした感覚である可能性は低くなく、わたしはそうした「規則正しさ」のようなものがどうにも苦手で、事実、起きる時間や寝る時間は規則的でなく、不安定だ。であるならば、もはや複雑なことは考えず書いているときの日付、時刻に準拠すればよいのではないか。ここ数年は基本的にそのようにしているように思う。あくまでわたしの記憶の中での話だけれど。とはいえ、自分の時間感覚と日記に記載する日付との間に少なからず乖離があるから、「いまだに悩む」と書きはじめたのだと思うと、ここまでの文章はいったい何のために存在していたのかという、極大の「不毛」という感覚におそわれる。実はこれを書きはじめるまでに約1時間前後の時間をわたしはうだうだすることに使ってしまった。具体的には、頭の中にあるもやもやを少しでもここに残しておきたくて編集画面を開いたものの、1文字も書けずに違うことに手を出したりぼーっとしていたりした。だから、日記の日付にまつわる不毛な文字羅列は、助走のようなものだと自分では思っている。けれど、一つ前の日記――もはやこの呼び方すら適切ではないように思えたきたけれど――のときと同じように、きょうも何も書けそうにない。頭が何かを思考することを拒否しているような感覚だ。かつて、わたしは何も考えられない状態を「コンクリートが頭の中に詰まっているような感覚」というふうによく日記――それは誰かに見せるものではなく、本当に私的な日記だ――に書いていた。いまもそれと同じような感覚に覆われているような気もするけれど、少しそこにはおさまらないような感覚もあり、それが、きっと思考することを拒否しているという言葉として現れているのだと思う。
きのうかおととい、アメリカドラマについての備忘録でも書こうかなとは思っていた。けれど、いまやそれもできない状態だ。たとえば、かつて、2000年代は『24』にはじまる「画面の向こうとこちらで流れているそれぞれの時間の同期」と「過剰なまでのクリフハンガー」がさまざまなかたちで表現されていたが、2010年前後からは『ブレイキング・バッド』などに見られるように、シリアルドラマ(≠1話完結型ではないドラマ)でも1話ごとの完成度、精度を高め、出し惜しみや過剰な引き伸ばしをしないタイプによってアメリカドラマは次なるステージへと躍進した。けれど、そこでも「画面の向こうとこちらで流れているそれぞれの時間の同期」は健在だった。それがキャラクターや物語内容にリアリティを与えていた。画面の向こうで起きていることはわたしたちが生きているこの現実と地続きなのだと錯覚させていた。ただ、その特徴も配信ドラマが全盛になると次第に弱まっていく。ビンジウォッチング(一気見)という鑑賞スタイルが当たり前になり、配信側も全話一挙配信などを始めるようになってくると、当然ながら1週間で1話という時間感覚とは別の時間の流れ方が必要となってくる。つまり、配信ドラマ全盛のいま、『24』から始まった「画面の向こうとこちらで流れているそれぞれの時間の同期」という幻想は影をひそめ、アメリカドラマは次なるステージにすでに突入して久しい――といったようなことを書いておこうと思った。けれど、備忘録とはいえこれではお粗末すぎる。かといって、このアイデアを温めておいていつか書けるときに書く、という気概もない。むしろ誰に盗まれてもよい。誰かがアメリカドラマについてしっかり批評してくれるならば、それに越したことはない。きっとわたしには無理だから。こうして自分の失敗や挫折を記録していくことぐらいしかいまはできそうにない。