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転勤を拒否したら給与返金?ー転勤命令を拒否した総合職社員に対し地域総合職との賃金差額の返還を命じた事例ー【ビジネスパートナー事件・東京地裁令和4年3月9日判決・労経速2489号31頁】
働き方が多様化している昨今。
職務内容や転勤の範囲が限定される「限定正社員」との言葉も珍しいものではなくなってきました。
メンバーシップ型雇用のもとゼネラリストの育成に重視を置く日本では、全国転勤は出世のため前提条件だとされています。
そのため、正社員と限定正社員との間では
将来の人材登用・活用への期待度
転勤による経済的・精神的負担への手当
などの理由から賃金面でも待遇差が設けられています。
それでは、総合職社員が転勤を拒絶した場合、会社は就業規則を根拠に過去に遡って地域限定総合職との賃金差額の返還を請求できるのか?
今回は、そのような論点が問題となった事例としてビジネスパートナー事件(東京地裁令和4年3月9日判決・労経速2489号31頁)を取り上げます。
どんな事案だったか?
本件は、原告会社が、総合職で勤務していた被告労働者に対し、転勤命令の拒否を理由に、就業規則の規定に基づき
地域限定総合職への職群の変更
総合職と地域限定総合職の賃金差額(半年分・12万円)の返還の請求
をしたところ、被告労働者が賃金差額の返還を拒絶したため、原告会社側がその返還を求めて提訴したという事案です。
これに対し、被告労働者側は、原告会社からの請求について
賃金全額払いの原則(労基法24条1項)やその趣旨に違反する
就業規則としての合理性(労働契約法7条)がない
ことを理由に賃金差額の請求を違法・無効と主張しました。
しかし、裁判所は原告会社の請求を認め被告労働者に12万円の支払を命じました。
本件の事実関係
裁判所が認定した事実関係は以下のとおりです。
平成27年7月1日、原告会社と被告労働者との間で総合職の労働契約を締結。被告労働者は部長職として入職。同時に関係企業に出向。
平成30年4月、原告会社から出向先の従業員に対して転勤の可否に対するアンケート。被告労働者は、両親の世話などを理由に遠方への転勤が困難であることから地域限定総合職を希望する旨を記載。ただし、正式な職群変更の申請手続は行われなかった。
平成30年6月11日、原告会社、部長としての適性を欠くとして被告労働者を一般職に降格
平成30年10月2日以降、原告会社から被告労働者に対して降級の懲戒処分や任務懈怠に基づく損害賠償請求訴訟が提起される。原告側からも退職強要やパワハラによる慰謝料の請求や賃金減額無効に基づく未払賃金請求の別訴が提起される。
令和2年2月28日、原告会社、被告労働者に対して大阪支社への転勤を命じる。被告労働者はこれを拒否。
令和2年3月1日、原告会社、被告労働者を地域限定総合職に職群変更する。
令和2年3月頃、原告会社、被告労働者に対して就業規則に基づき総合職と地域限定総合職の賃金差額(半年分・12万円)を請求する。
なお、原告会社の就業規則・給与規定には「総合職の正社員が会社が命じる転勤を拒んだ場合は、・・・半年遡って差額を返還し、翌月1日より新たな職群に変更するものとする」との定めがありました。
裁判所の判断
裁判所は、上記の事実を前提に、以下の理由で原告会社の請求を認めました。
賃金全額払いの原則(労基法24条1項)について
賃金全額払いの原則(労基法24条1項)は、使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、もって労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の経済生活を脅かすことのないようにしてその保護を図る趣旨にある。
原告会社の就業規則の規定は、総合職として賃金の全額が支払われた後、転勤ができないことが発覚した場合に、就業規則の規定に従って、本来支払われるべきでなかった総合職と地域限定総合職の基本給の差額を半年分遡って返還させるというもの
返還金額も月額2万円(半年分で12万円)にとどまる
従業員としては、自身の転勤の可否について適時に正確に申告していれば、返還の事態を避けられる
したがって、原告会社の就業規則は賃金全額払いの原則やその趣旨に反するものとはいえない。
就業規則としての合理性(労働契約法7条)について
従業員が転勤の範囲を事由に選択・変更できる人事制度を整備する一方、転勤可能者を確保する趣旨から、総合職と地域総合職との間に月額2万円の賃金差を設けることは合理的
従業員らに自らの転勤の可否について適時に正確な申告を促すという趣旨も合理的
原告の側で当該従業員の転勤に支障が生じた時期や事情を客観的に確定するのが通常困難であることから、原則として、転勤に支障が生じた時期や事情にかかわらず、一律に半年分の賃金差額を返還させることとして、仮に転勤に支障が生じた時期が半年以上前であっても、半年分を超える返還は求めていない
以上から、原告会社の就業規則は合理的
判決に対するコメント
結論・理由付けともに強い疑問があります。
具体的には、次の点が理論的に説明がつかないように思われました。
いったん有効に支払われたはずの賃金について、「本来支払われるべきではなかった」とする論拠が不明
職群変更の不申請や原告会社の業務の支障を理由する固定額の返還合意は違約金・賠償予定の禁止(労基法16条)違反の疑いがある
以下、私の疑問点を述べます。
1.いったん有効に支払われたはずの賃金について、「本来支払われるべきではなかった」とする論拠が不明
裁判所は、原告会社からの返還請求が賃金全額払いの原則に違反しない理由として、原告にはいったん賃金が全額支払われたことを挙げます。
確かに、賃金とは一定の労働期間(通常は1か月)に提供された労務への対価です。
本件でも、被告労働者は総合職の職員として原告会社が指定する場所・業務の労務に従事しており、その正当な対価として毎月の賃金を受け取っていたというべきです。
そのため、裁判所のいう「本来支払われるべきではなかった」賃金は想定できないように思われます。
この点、裁判所は被告労働者側は平成30年4月時点で転勤が困難であることをアンケートで回答していることから、被告労働者側から転勤困難による職群変更を申し出ることが可能だったとしているようです。
しかしながら、
いったんは転勤が困難と回答としても、命令があれば何とか環境調整して転勤に応じる可能性もあり得る
職群変更は賃金の減額を伴うため労働者側からの自主的な申請は期待しづらい。むしろ、期待してはならない
そもそも原告会社の就業規則は「転勤を拒んだ場合」に初めて職群変更が可能としている。そのため、労働者側から転勤困難の自己申告があったとしても原告会社側からの転勤命令とその拒絶の事実がない限り職群変更自体ができない
職群変更自体ができない以上、原告会社は総合職として被告労働者を使用し、賃金を支払い続けてきたというしかない
という点から、裁判所の理由付けには説得性がないと考えます。
2.原告会社の業務の支障を理由する固定額の返還合意は違約金・賠償予定の禁止(労基法16条)違反の疑いがある
裁判所は、いったん有効に支払われたはずの賃金の返還を定める今回の就業規則の規定について、
「原告の側で当該従業員の転勤に支障が生じた時期や事情を客観的に確定するのが通常困難である」ため、「転勤に支障が生じた時期や事情にかかわらず、一律に半年分の賃金差額を返還させる」ことも合理的である
としています。
しかしながら、転勤困難な場合に職群変更を自己申告させることを義務付け、その違反に固定額の金銭的負担を負わせるということは、「労働契約の不履行について違約金を定め」る場合に他ならないように思われます。
同様に、転勤により生じた原告会社における業務遂行上の支障を金銭で精算させるというのも、「損害賠償額を予定する契約」といわざるを得ないと考えます。
したがって、本件の規定は違約金・賠償予定の禁止(労働基準法16条)の違反を理由に無効とすべきであったと考えます。
(ただし、この点は被告側から主張がなかったようで直接の争点とはなっていませんでした。)
最後に
以上、ビジネスパートナー事件について取り上げました。
今回の事例は、どうも「総合職なのに転勤を拒否することはけしからん」という価値判断に基づいて安直に出されたという印象がぬぐえません。
しかしながら、転勤の拒絶により生じる社内秩序や賃金の不均衡の問題については
転勤命令違反に対する懲戒処分
職群変更後の減給
などにより対応することが可能だったはずです。
それを、いったん有効に支給したはずの賃金の返還を認めてしまっては、労働者としては常に賃金返還の不安に曝されながら無為に貯蓄に努めなければならないことになってしまいます。
実際、昨今では賞与支給後3カ月以内に退職した労働者にその返還を求める事例などもあるようですが、そのような事例で今回の裁判例を根拠に返還請求を正当化するような主張が出てこないかが危惧されます。
今回の裁判所の判決は理論的な深みが欠けており、判決がもたらす負の影響も検討されなかった点で安直な判断であったといわざるを得ないと感じました。
以上から、今回の判決は異例のものであるという前提にたちつつ、転勤命令の拒絶については懲戒処分や職群変更命令・労働契約の変更合意などにより対応するのが無難のように思われました。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
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