人物・バンド解説「ルーロウルズ」

 ソウルシンガーとしてはもちろんジャズやブルースシンガー、エンターテイナー、俳優や声優と幅広い活躍をしたルー・ロウルズ。ですがその長く幅広いキャリアの割に日本での情報は少ないのでまとめてみました。英版Wikipediaの要約をベースにDiscogsやライナーノーツ、本から情報を追加しています。

 シカゴ出身のルーはDead End Streetで歌われるように大変貧しい環境で育ちました。冬にはシカゴの北にあるミシガン湖から吹き付ける風のせいで部屋でも厚着で過ごし夜は寒くて眠れないという環境だったそうです。しかし彼は早いうちから歌の才能を開花させ教会で歌いそこではサムクックやカーティスメイフィールドとも交流がありました。日本語版Wikipediaにはサムと同級生とありますがサムが31年、ルーが33年産まれなので誤記或いはサムがなんらかの理由で入学が遅れたかルーが飛び級したと思われます。ただ英語版Wikipediaにはその記述がないので個人的には間違いではないかと思います。その後もピルグリムトラベラーズを始め複数のゴスペル隊を渡り歩き、徴兵されると陸軍の第82空挺部隊に所属。空挺部隊というのはパラシュートを身につけて飛行機から飛び降りるという任務を行う部隊(時代や国、戦いによっては例外もあります)。気圧のせいで調子が悪くなる僕は飛行機に乗るだけでもちょっと怖いのにそこからほぼ身一つで飛び降りるなんて考えただけでもゾッとしますがなんと26回も降下訓練をしたとか。すごすぎます。

 退役後はゴスペルに復帰するもののツアー中自動車事故に遭います。同乗していたサムは軽傷だったもののルーは意識不明の重体で一時期は死が危ぶまれるほどでした。しかしそこから回復すると世俗の歌手に転身します。これは完全な僕の想像ですが死にかけるという大きな経験や入院というすることもなく無駄に時間が長く感じる環境に置かれたことで人生について長く考えた末の結論ではないかと思います。

 その後はマイナーレーベルを転々としつつサムクックのコーラスをして1962年にキャピタルと契約。ロックンロール界で有名なDJディッククラークの目に留まり彼の推薦で契約できたらしいです。ファーストアルバムはレスマッキャンLTDをバックにしたブルース色の強いジャズでStormy Mndayがヒット。この直後ルー、ラムゼイルイス、ローランドカークの3人でジョイントツアーをしたそうですがこの時のルーはアルバムを作れたことをとても喜んでいたそうです。大人の男性といったイメージのルーがはしゃいでいるのを想像するとなんだか微笑ましいです。キャピタル初期は様々なアレンジャー、プロデューサーと組みますが中期からはデイヴィッドアクセルロッドと組みます。彼はキャノンボールアダレイとも組んでいた人物でスモールコンボのほぼアレンジのない作品からオーソドックスなストリングスアレンジ、電子音等を使ったトリッキーなアレンジまでをこなすキャピタルのリチャードエヴァンスやノーマンホイットフィールドみたいな人物です。なので序盤はブルースやジャズ、スタンダード的なサウンドでしたが後期ではサザンソウルやロックのカバーも増え音もグルーヴィなものに変わります。

 66年にはLove Is The Hurtin’ Thing(恋はつらいね)がグラミーにノミネート、67年にはDead End Streetがグラミー賞のベスト男性R&Bボーカルパフォーマンス部門を受賞しダウンビート紙の読書人気投票ではフランクシナトラを抑えて1位獲得しています。ジムコーガンという人物が書いた「レコーディングスタジオの伝説」という本ではこの曲を録音するルーの写真が見れますが曲の雰囲気に合わせスタジオを暗くして録音したそうです。
 MGMに移籍すると72年にSunnyで有名なボビーヘブが書いたNatural Manがヒットして二度目のグラミーのベスト男性R&Bボーカルパフォーマンス部門を受賞。後にPIRでも再録して賞は貰えなかったもののヒットしています。この時代はファンクやニューソウルに接近した曲も多く好きなのですが、再販や配信があまり行われていないため足取りを追うのが難しいです。

 1970年代後半にPIRに移籍します。フィリーのベースはソウルながらもポップなストリングスやジャジーなホーンアレンジなんかはルーのスタイルに良くあっていると言えます。You'll Never Find Another Love like Mine(別れたくないのに)というめちゃくちゃ長いタイトルの曲がヒット。ビルボードのR&Bとイージーリスニングチャートで1位、ダンスチャートで4位、ホット100で2位、RIAAのゴールドディスク認証とめちゃくちゃ華々しい記録です。他にもすでに触れたNatural Manの再録やLady Love, See You Where I Get There, Groovy People等がヒットしました。

 80年代中盤はEpicへ。ジェイグレイドンと組んでブラコンやAORをやっていますが好みの音ではないのでスルーしています。ルーもアルジャロウもジェイの音にはオーバースペックだと思いますが時代が時代だから仕方がないですね。

 それ以降はステージが中心となり長期契約ではなくマイナーレーベルやブルーノートを一枚のみの契約や短期契約で渡り歩いています。ただゴスペルのアルバムがあったり過去曲を渋いアレンジで再録したりと今までのキャリアを総括するような歳を取ったからこそできるアルバムが多く無視できないかなと思います。激しいシャウトや高音を出すような歌い方ではないため加齢による声の変化が劣化にならずむしろ深みを与えたことが幸運だったとも言えます。

 歌手業以外では俳優や声優としても活躍。自身がホストを務めるTV番組を持った他、TVドラマの西部劇や子供向け番組のセサミストリートにレギュラーとして出たり、バドワイザーなどの多くのCMやアニメの声優としても活動。バリトンを地声としつつも声域が広く伸びやかな声は演技でも良い持ち味になったはずです。またチャリティーや黒人学生のための奨学金等も行なっていたそうです。
 余談ですがセサミストリートはトゥーツシールマンスが主題歌を演奏したりトニーベネットがカバーアルバムを出したりと何気にジャズミュージシャンが関わっています。というか音楽に力を入れた子供向け番組って下手な大人向け音楽番組より豪華なミュージシャンが出ている印象があります。

 こうした経歴を見ると古いスタイルのエンターテイナーの最終世代でありソウルシンガーの第一世代という不思議な立ち位置がよく分かると思います。彼の再評価はまだまだ先ですがこれがきっかけで1人でも彼の音楽が好きになってもらえたら嬉しいです。

参考文献
英版wikipedia
各種ライナー 岩浪洋三、青木啓、吉岡正晴著