生誕130年記念 児島善三郎展 自然との共生 -時代が善三郎を求め始めている。
みぞえ画廊福岡店では、昨年生誕130年を迎えた福岡出身の画家、児島善三郎の展覧会を開催しました。(2023年10月14日(土)~10月29日(日)※終了しています)
児島善三郎は、福岡市中島町(現在の中洲中島町)の紙問屋児島本家の
長男として1893年(明治26年)に生まれました。
福岡県立中学修猷館在学中に、絵画同好会「パレット会」を結成し、
絵画の世界へのめり込んでいきます。(このパレット会には、同学年の中村研一、一つ下の学年の中村琢二兄弟も参加していました。)
画家になりたいという本人の希望は、家業を継がせたい父親には聞き入れてもらえず、長崎医学専門学校薬学科へ入学します。
しかしながら描くことへの情熱は消えず、20歳で学校を中退、上京して
絵を学び始めます。
東京美術学校(現在の東京藝術大学)の受験失敗や、胸の病気による入院生活などの苦難もありましたが、国内での活動を経て、1925年(大正14年)、宿願だったヨーロッパ留学を果たします。
当時、ヨーロッパを席巻していたフォービズムの影響を受けつつも、西洋絵画の伝統である「裸婦画」の制作に勤しみます。
帰国後に描かれた裸婦画も、留学経験を通して学んだ古典主義的な重量感と質感が見事に表現されています。
帰国後、児島はヨーロッパで学んだ西洋美術に、日本的な感性を加えた「日本的油絵」を確立しようと活動します。既存の美術団体では実現が不可能と考えた児島は、志を同じくする仲間と「独立美術協会」を設立、その創設メンバーとなりました。
この頃から、日本画の要素を取り入れた風景画の制作を手がけました。
西洋画で培った遠近感、色彩の表現を活かしつつ、物体は水墨画のように
簡略化した、「日本式フォービズム」とも呼ぶべき、独自の画風を確立していきます。
しかし、日本は長い戦争の時代に突入します。多くの画家が国家の指示に従い制作する中、児島は戦争画を描くことはしませんでした。その為絵具の配給を止められたりなどの苦労があったといいます。この時代の油彩には、漢字で「善三郎」とサインされた作品があります。これも時世に配慮した決断だったのかもしれません。
戦後、持病の悪化により、屋外の写生に出ることが難しくなった児島は、雨の日の退屈しのぎに始めた静物画を極めていきます。遂には制作の為、自宅の庭で花々の栽培まで始める入れ込みようでした。
年を経るごとに、その作風は変化していきます。
太い輪郭線で描かれた形は単純化され、背景は単色で塗られていき
ます。テーブルや敷布は平面的に表現され、静物をより一層立体的に際立たせています。いわば一つの様式美の完成です。
児島善三郎の目指した、「日本的油絵」。西洋画の立体性と日本画の平面性が一つの画面の中で融合し、その構図のオリジナリティと鮮やかな色彩が今も観る者をひきつけてやみません。
西洋画に憧れた一人の日本人が、独自の表現を追い求めた結果、今では海外でも高く評価される作家の一人になりました。
今回の展覧会の作品は、すべて「兒嶋画廊」様よりお借りして開催いたしました。
厚く御礼申し上げます。
兒嶋画廊HP