なぜ人は生成AIに学習されることを諦めないのか言語化してみる
はじめに
はじめまして。「AIには書けないテキスト」といいます。どうぞよろしくお願いします。今回は初めてのnote投稿ではないのですが、読みづらい部分があると思います。最後まで読んでいただけると幸いです。
◇筆者はどんな人か
まずは簡単に自己紹介を。どこにでもいる一般人なのですが、とあるX(旧Twitter)のポストで反生成AIの人から一方的でヒステリックな捨て台詞を言われて、この問題を真剣に考えるようになりました。
◇筆者のスタンス
私のスタンスは、「生成AIによる無断学習は問題はあるかもしれないが、もう止められない」です。これは、学習元のビッグデータ、そして、Loraなどの追加学習の両方に対してです。もう反生成AIの人は諦めるしかないと思っています。
◇この記事の内容
このnoteでは法律云々の話をするつもりは一切なく、反生成AIの人から一方的でヒステリックな捨て台詞を言われて初めてこの問題に触れて感じたことを考察する内容になります。いわば、長文のお気持ち表明です。
この記事で言いたいこと
先に、このnoteで一番主張したいことを書いておきます。それは、
「現在のAIを取り巻く法・倫理は技術者の考えのみで出来上がっているものであり、まずはデータ提供者の意見も聞く態度や意識、環境が必要であったかもしれないが、もう手遅れ」
ということです。本当はX(旧Twitter)でポストとも思いましたが、拡散力がないし、課金してないので長文を何ポストにも分けて書くと読みづらいと思いnoteに書くことにしました。とても長くなると思いますが、最後まで読んでいただけると幸いです。
手遅れについて議論する意義
さて、本題に入りましょう。最近私はX(旧Twitter)でこのような会話をよく見かけます。
ここで、下に示した1910年代のニューヨークの写真を見ていただきたいと思います。たった13年で馬車が自動車に入れ替わっています。
私は「絵師は馬車」「生成AIは自動車」だと思っています。そうなると先ほどのケースは以下のように言い換えることができます。
さて、これを見てどう思ったでしょうか?
私は、ケース2の会話を見て、「もう生成AIの進化を止めるのは手遅れだけどは法律の規制は必要になりそう」という新たな発見をしました。
そしてEUはその方向に向かっています。
EU、AIを包括的に規制する法案で政治合意、生成型AIも規制対象に
https://www.jetro.go.jp/biznews/2023/12/8a6cd52f78d376b1.html
ちなみに確かに生成AI(自動車)は何も奪ってはいない。作品を作る技術(馬車の走行技術)が創作者(馬主)から失われたわけでもなければ、データを消されたわけでもない。
また、学習(運転)というのは人間もやっていることである。実際、これに具体的な反論があまりできていないせいで、推進派(自動車推進派)の中には「結局(馬車の走行技術取得の)努力を認めてほしいだけ」「(馬車の走行技術取得の)努力してないのが嫌なだけの老害」と考えている人も少なくない。
しかし、しかしだ。馬主はなぜか何かがおかしいと感じる。そこで、私はこの違和感を言語化するべきだと思った。いいかえれば、自動車は馬主から何を奪っていくのかである。言語化することで、より規制するべき理由を明確に表現することができると考えた。よってこのことについて議論することはとても有意義だと考えた。ここからはこの件について私なりの見解を書いていきます。
馬車による運転と自動車による運転の相違点
まずはここから考えていきたい。馬車と自動車の違いについて私が考えるのはこの3点である。
車の大量生産の容易さ
不特定多数が利用できる点
運転方法の不明瞭さ(なぜ動くのか理解不能)
①大量生産の容易さ
これに関しては相違点としてはわかりやすいものであるが、私はそこまで問題視していないのでここでは取り上げない。一つ言うなら、馬は大量生産できないが、自動車は無造作に大量に生産することができてしまう。
②不特定多数が利用できる点
馬主が走行技術として学習したものは、その人のみが自分の力として身につける。それに対して、自動車による運転は、自動車が馬以上のスピードが出てしまい、この性能を不特定多数に広げてしまう。この違いは小さいようで結構大きく、誰でも自動車を利用可能なことが馬車の没個性化に繋がる可能性があり、このことは問題視するべき点であると考える。
③運転方法の不明瞭さ(なぜ動くのか理解不能)
今回の話は主にこの点にフォーカスを当てていきたい。
馬車の走行の学習は、馬と様々なコミュニケーションしながら進めるものである。そのため、同じ馬車の走行方法を学んで得ても、その走行に至るまでのプロセスは異なるかもしれない。例えば、この馬の鳴き方はAという効果のために〜と考察していたとしても、実際馬は別の効果のためにその鳴き声を出しているかもしれないし、はたまたそんなことは意識していないかもしれない。
しかし、自動車の場合はその運転方法をあらゆる面、自動車メーカーが意図してエンジンを設計しているところから運転者自身が無意識のうちに運転している癖まであらゆるものを反映して運転してしまう。
以上の点が、私が考える馬車と自動車の違いだ。この違いによって生まれる自動車だけに感じる嫌悪感の正体とはなんだろう。これについて、私はラッダイト運動に似ている部分があると感じた。
ラッダイト運動とは
《結論》生成AIの反対はラッタイド運動として捉えるということ
よく、規制派の方は全分野のクリエイターが考えるべき問題と言っているが僕はそれは違うと思う。私はこの生成AI問題は、創作をしてるしていないに関わらず、「ネオ・ラッダイト」と呼ぶべき事案であると考える。
なぜなら「時代は変わり現代において、ICT等の進化によって、人の手を介さずに様々なサービスを受けられる時代が到来しています。多くの人手で実施されていた仕事がICT等により自動化されることで、個人の雇用機会が次第に奪われるのではないかという懸念から、開発を阻止したり、サービスの利用を控えるという考え方」という引用元の記述と反生成AIの主張は驚くほど似ているからだ。
『反生成AIはネオ・ラッダイト』
私は、今後もこのことをパブコメなどで政府に伝え続けていかず、このnoteの発信で終える。なぜなら現在の移動において馬車は使われず、自動車が使われている。無論、馬車や馬に乗るという行為自体は滅んでいないが、移動手段の役割を終えている。生成AIというのはそのような運命を辿るだけなのだ。
反生成AIの人々が過去のラッダイト運動を理解し、再び利用者、データ提供者を含む全ての人々が生成AI技術に希望を見出せるようになることを心から望む。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
※2024年4月5日追記:森川ジョージ先生と生成AIの画材論でも反AI派の方の考察をしました。是非ご覧ください。
※テンプレにさせていただいたオリジナルの作者リツさんに感謝致します。
https://note.com/light_quoll6260/n/ncf26f60e643f?sub_rt=share_h
※イラストはBing Image Creatorが作成。