変わらないことを拒む

人間の細胞は7年ですべて入れ替わるらしい。

……という雑学ネタ知識をきいたのはもう30年くらい前のことなので、その時点から数えるとボクの身体は 既に四回以上もすべての細胞が入れ替わっていることになる。全身。くまなく。まんべんなく。

ヒトの身体がいくつの細胞からできあがっているのか知らないけど、きっと膨大な数だ。そのひとつひとつがじわじわと入れ替わり、生まれ変わり、7年で全身がすっかり別の細胞で構成され直す。7年前に自分を形作っていた細胞は、7年後にはもうひとつも残っていない、ということになるのだ。凄いことだ。

たった7年と感じるだろうか。7年といえば、小学校に入学した子供が卒業するよりも長い。何度かダブった大学生だって(院や研究職に進まなければ)7年もあれば卒業か放校か、おそらくだいたいは大学からはいなくなっているだろう。小学生が学ぶこと・大学生が経験すること、その膨大な情報量を思うと、7年という期間はかなり長い。

7年間のことをすべて覚えているだろうか。オリンピックは夏冬合わせて4回くらいあったはず。海外にまで足を伸ばしてはいないけど、何度か国内の泊まり旅行には行った。そういえば引越ししたかも。大きな買い物をした。葬式に出た回数と結婚式に呼ばれた回数は同じくらい。大切にしていた物を処分した。ここでは言えない話だ。バンジージャンプに挑戦して、もう二度とやるもんかと心に決めた。家族構成に変化があったり、1回くらいは大病か大怪我かして、長期間病院の世話になっていたかもしれない。ひょっとすると転職してたっけ。

覚えていなくてもしかたがない。なぜならこの7年間で自分の細胞はすっかり別の細胞に代わってしまったのだから。細胞が違うものになって、自分自身もまったく違う新しい存在になってしまったのだから。いやもちろん自分という存在の同一性は保たれている。生まれ変わったわけでも別人格になったわけでもない。あくまで概念として、身体を構築する細胞の入れ替わりをもって自分自身も再構築されたとみなすというだけのことではあるが。

さて、自分の身体の細胞は7年間ですっかり入れ替わってしまったのだけれど、では、変わっていなものはあるだろうか。習慣? 癖? しゃべりかた? こだわり? 思想? 理想? 信念? 目標? 好きなもの・嫌いなもの? 

一般に、変わらないことは良いことだと見なされている。信念を曲げないこと・こだわりを持ち続けること・決してあきらめず初志貫徹すること。逆に、ころころくるくるスタイルを変えてしまうことは、飽きっぽく・浮気性で・一貫性がない粗雑な性格だと見なされる。そういう傾向がある。

変わること≒飽きっぽいこと=良くないこと。
変わらないこと≒確固とした信念があること=賞賛されるべき美質。

このような評価をされがちなのは、いったいなぜなのだろう。変わることを悪しざまに罵る言葉は、転向だの浮気性だの信念がないだの日和見主義だの、いくらでも出てくるのに、変わることを褒める言葉は「成長」くらいしかない。

成長しないけど変わろうとする場合、それはネガティブな評価に晒される可能性が高いので、変わること自体をためらってしまっているのではないだろうか。

例えば、これまでの人生はずっとAという考えかたが正しいと思って生きてきた。しかし世間にはBという考えかたもある。AとBは必ずしも対立する正反対の概念というわけでなくてもいいが、AとBが完全に反対のバチバチに喧嘩する真逆の考えかたであっても別にかまわない。要は、Aに則って生きてきた人生であっても、ある時を境にその先はBに従って生きてゆくというのも有りではないかと思うのだ。

AとBには何を代入してもいい。ついうっかり生きかたなんて大仰な表現を使ってしまったが、そういう人生の転機になるほどの決断を促しているわけではない。ただただ「考えかたを変えてみる」ことに、それだけのことに、もっと気楽さを・肩の力を抜いた感じを・カジュアルな転向を呼びかけたいだけなのだ。

※約14年前に買ってずっとキーチェーンにさげている爪切り。

ボクはつい先日、手足の指の爪の切りかたを変えた。ボクの爪は中学生の13歳のときからずっと同じ切りかたをしてきた。30年以上続けているこだわりの切りかたで、欠かさず毎日切っている。いつでも切れるように気にかけるあまり、爪切りコレクションまで始めてしまって、200個以上の爪切りを持っている。そんなことはどうでもいい。爪を切ることについては並々ならぬこだわりがあり、このスタイルで切らなきゃ落ち着かないから、この切りかただけが唯一の、絶対的に正しい切りかただと信じて生きてきたわけだ。

でも、その爪の切りかたを変えた。Aの爪の切りかたを、Bに変えた。変えてから1週間ほど経つ。まだ慣れないけど、このまましばらくはBでいこうと決めている。

こんな些細な変化に対しては、ポジティブもネガテイブもない。爪の切りかたを変える、ただそれだけのことだ。しかしそんなつまらないことに対してすら、習慣を変えることへの怖れがつきまとうし、続けてきたスタイルを改めることへの不安感が伴う。外面には現れない。他人には気付かれない。あくまでも自分の中での変化への恐怖だ。変えることへの背徳感だ。脈々と続いてきた連関を断ち切ってしまうことへの後ろめたさだ。

恐怖? 背徳感? 後ろめたさ?
爪の切りかたを変えることに後ろめたさを感じるんだって……?

そんな大げさなことあるわけないと言い切れるだろうか。本当に? いかなる場合にもためらわず、変わることに恐れを感じず、積極的に変化することを楽しめているだろうか。

成長を伴わない変化をもっと積極的に許容していこうじゃないか。

「謝ったら死ぬ病」なんて揶揄されるタイプの固執がある。誰かが何かの間違いをおかして別の誰かにそのことを指摘された場合、はたから見ている第三者からすると、初めに間違った人がその誤りを認めて必要に応じて訂正なり謝罪なりすれば、あっさり収まることのように思われる。

でもたいていはそうならない。初めに間違った人は(ほとんどまったく)自分の誤りを認めない。自分は間違っていないとむりやりな抗弁を重ねる。つじつまが合わなくなっても、矛盾が生じてもおかまいなしに、ただひたすら自己の正当性だけを言いつのる。もしくは指摘や批判に耳をふさぎ、無視を決めこみ、自分の間違いを無かったことのように忘れてしまう。

ただしほんとうに忘れているのではなくて、忘れたかのように外面を取り繕っているだけで、他人や周囲の人や、あわよくば間違いを指摘してきた“敵”が己れの犯した間違いのことを忘れてしまってくれることを期待しているだけなのだ。

「謝ったら死ぬ病」の症状は、変化を過剰に怖れる傾向とよく似ている。正しいと思って為した過去の行い(A)が間違っていたと認めること(B)ができないのだ。変化ができないから、謝れない。謝ると死ぬというのは、B=死とみなしているに等しいということだ。

落ち着いて考えればそんな馬鹿げたことはありえないというのはすぐに分かる。Bは死ではない。そして(間違っていたとしても)Aもイコール死ではない。ただそれは訂正すべき内容・正すべき行いであったというだけのことなのだ。

落ち着いて考えれば、と言ったが、ところがなぜかそれができない。頑なになってしまう。内にこもってしまう。Aにしがみつき、過去の自分の言動からの一貫性を保とうとしてしまう。

過去の自分が間違っていたと認めてしまうのは、自分を否定することだと思っていないか。昨今はなにかと“自己肯定感”がもてはやされがちだが、間違いを正すことが自己否定につながると勘違いしてしまってはいないか。

その根底に潜んでいる頑なな感情の依怙地さは、つきつめて考えればただ単に「変化するのが悪いことだ」という根拠のない思いこみであったりはしないか。

「謝ったら死ぬ病」の例は、Aが間違いでBが正しい。AをBに変えるということは、犯した間違いによっては罪を償うための罰を受けなければならないかもしれないし、罰を避けようと足掻いてBを認めたくない気持ちになるのも、理解できなくはない。

爪の切りかたはAもBも、どちらかが正しかったり間違っていたりということはない。爪はAで切ってもいいしBで切ってもいい。日替わりでAとBの切りかたを交互に試してもいい。それはCという別のスタイルということになろう。AとB交互に切るCの人が、ある日突然まったく新しい爪の切りかたDに目覚めてもいいのだ。変化は自由だ。

変えない自由もある。死ぬまでこだわりの爪の切りかたを続けてもいい。ただ気に留めておかなければならないことがある。

変えないことのほうがずっと簡単で楽ちんだ。あえて変化することにはものすごいパワーとエネルギーと覚悟が要る。

簡単なほう・楽なほうを選び続けてずっと変わらないでいることに慣れてしまっていたら、いざ変わらなければならない時(つまり、間違いを正さなければならないとき)にも、やはり変わらないほう・死なないために謝らないほうを選んでしまうのではないか。それは一貫性を保っている堅牢な信念の持ち主であるというような、プラスの評価をされるべき態度だとは思えない。変化を拒み、成長から目を背け、間違ったままの位置に留まり、澱となってよどむ停滞だ。

変わることに慣れておこう。どんな些細なことでもいい。成長なんてしなくてもいい。身体に良いと思って続けている習慣であっても、あえて一度は身体にとってすごく悪い方式に変えてみよう(すぐ戻せばいい。戻すのも変化だ)。

なにかを変えるときにボクがいつも思うのは、冒頭に書いた7年で入れ替わる細胞のことだ。人間の身体は7年ですっかり別のものに変わってしまった。では自分の考えかたはどうだ? 習慣は? 常識とみなしているものやこだわりや正義やその他もろもろ、自分を自分たらしめている核の部分はいったいどうなんだ? 変えなくてもいいと信じているもの・変えてはいけないとしがみついている大事なもの、それらすべてをたまには見直してみるべきではないか。例えば7年に一度のタイミングで。

変わらないでいる安寧さに慣れず、変わることに躊躇しないですむように、日頃から訓練を積んでおく。7年ごとに意識的に能動的に変わる。わざわざ変える。変えなくてもいいと信じきっている自分の中の常識こそ、率先して疑い、価値観を洗い直し、あえて正反対のことを始めてみる。変わらないでい続けることなんてくそくらえだ。

※※※

「人間の細胞は7年ですべて入れ替わる」というのは、どうやら眉唾らしい。新陳代謝のスピードは体の各部署でまちまちだし、変わる細胞はどんどん変わるが、ずっと残るものもある。いくらなんでも「すべて」は入れ替わらないということらしい。

でもそれはそれとして、7年くらいで自分が(肉体的にも精神的にも)リニューアルしている、と考えるのは、ボク自身とても気に入っている。

※※※

追記:

遅ればせながら『トイストーリー4』を見てきました。号泣。これまでのシリーズ3作も素晴らしかったのですが、どこか引っかかる点が残るものばかりで大絶賛とまでは言えませんでした。しかし本作でやっと完璧な物語に出会えた。ジョン・ラセターがいなくなったからかしらん?

そう。『トイストーリー4』は「変わる」物語でしたね。価値観を固定化せず、役割に縛りつけず。だから素晴らしいんだ。

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