怒りはすぐに感じた方がいい。嫌いはじっくり考えた方がいい。

なにかを「嫌い」になることがある。また、なにかに「怒り」を感じることもある。

※ボクはアップルパイが「嫌い」です。

「嫌い」「怒り」ネガティブな感情で、日々の心の動きが「嫌い」「怒り」ばかりで占めるとさすがにちょっと疲れてしまう。だからバランスをとるために「嫌い」の反対の「好き」を楽しんだり、「怒り」を打ち消す「優しさ」を発したりする。

なにかを「嫌い」になることそのものは悪いことじゃない。どうしたって性に合わないものはあるだろう。神様じゃあるまいし、万物を好きでいるなんて不可能だ。なんでもかんでも好きであろうとして「嫌い」を拒んでいたら、どこかで矛盾が生じてしまい、がんじがらめになってかえって息苦しさを感じ、ストレスまみれになるだろう。

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ところで、なにかを「嫌い」になるきっかけはなんだろうか。物品でも意見でもなんでもいい。「嫌い」の対象になるものが俎上にあげられ、自分の中でジャッジされ、「好き」ではなく「嫌い」のほうに分別されるきっかけは。

生理的に嫌い・不味いから嫌い・見た目が嫌い・匂いが嫌い・昔のイヤなことを思い出すから嫌い・肌が合わないから嫌い・損をするから嫌い・痛いから嫌い・眩しいから嫌い・自分に似合わないから嫌い・主義主張が受け入れられないから嫌い……。

「嫌い」に理由なんてない、という場合も多いだろう。なんとなく嫌いと感じて、いちいち理由や理屈など考えないことも多い。パッと見て、すぐに「嫌い」になるのだ。

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「ひとめぼれ」という感覚がある。パッと見て、すぐさま好きになってしまう感情だ。人に対しても物に対しても感じることがあるし、概念についてもパッと好きになることがあるだろう。この時もいちいちなぜそれを好きになったのかは考えない。

でも「好き」は、継続してずっと自分の意識の中に留まり続ける感覚だ。ひとめぼれしたあともずっと好きであり続ける場合は、なぜそれを好きなのか、反芻し、確かめ、考え、思い返し、掘り下げ、「好き」の理由を見つけていくことができる。直感的で理由のないひとめぼれの「好き」に、理性によって地位を与えていく作業が行われる。

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ひとめぼれの逆を言い表す適切な言葉はないからいまここででっち上げるけど、つまり「ひとめ嫌い」というのもあるだろう。パッと見て、すぐに「嫌い」になる。理由も理屈も考えない。

「嫌い」になったモノは、自分の外側へ「排除」される。嫌いなんだからそばに置いておきたくない。一刻も早くどこか遠くへやってしまいたい。「嫌い」なモノについて考えるのもイヤだ。忘れ去ってしまいたい。出ていけ。消えろ。

ひとめぼれで「好き」になることと、ひとめ嫌いで「嫌い」になることと、正反対の反応だけど似ているようで大きく違うところがある。初めは直感的で感情的で非論理的なひとめぼれ/ひとめ嫌いだけれど、「好き」のほうはその後もずっと自分の中に残る。直感や非論理的な部分は徐々に整頓され、「好き」に理由がつき、納得がうまれ、時間をかけて心の中に定着する。

仮に、ひとめぼれした対象があとからゆっくり落ち着いて考えてみると、さほど魅力的でもないな〜と思ったとしても、その評価がいきなり「嫌い」にまで堕ちることはないだろう。「ふつう」くらいのところにゆっくり落ち着いて、いずれにしても、しばらくは自分の中に残る。

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ところが、ひとめ嫌いで「嫌い」に分類されたほうはどうだろう。直感的に「嫌い」になったのだから、ただちに自分の中から外に放り出される。

つまり自分の中に残っていないモノに対しては、その後ゆっくり時間をかけて
「なぜ嫌いなのか」
「嫌いの理由に思い当たるふしはあるか」
「嫌いと断言することに納得できるか」

などと、冷静に考え、反芻し、検討を加える作業をしないことになる。

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直感で決めた「嫌い」が、最終判断になってしまう。

いちど「嫌い」に入れてしまうと、そこから浮上して「ふつう」や「好き」へと評価がくつがえる可能性はとても低くなる。

「嫌い」になったモノには二度と会えない。

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「でも嫌いなんだから、二度と会えなくてもいいじゃないか」……?

そう思うこともあるだろう。しかしその「嫌い」というジャッジは、即座になされたもので、感情的で、冷静さを欠いており、よくよく考えたうえでの評価ではないのでは?

「嫌い」をやめろと言っているわけではない。

だが「嫌い」こそじっくり考えて、落ち着いて判断すべき評価だと思う。最終的にネガティブな結論にいっても構わない。冷静さを欠かすことなく、自分の中で納得の上で「嫌い」と決断づけたのなら、それを大切に保持するべきだ。

そして次に似たようなケースに遭遇した場合は、こんどは少し考えるだけで過去に検討した「嫌い」の理由を援用することができるだろう。思考の省力化。直感かつ短絡的に断じているのと、ひと思考を経て下した判断と、似ているようでまったく違う。

人間なのだから、「嫌い」こそ、理性的に決定するべきだ。

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「怒り」もネガティブな感情だ。

なにかに「怒り」を感じるきっかけにもいろいろある。あからさまな不正義にあたったとき・不当な扱いを受けたと感じるとき・攻撃するものと虐げられたものを目にしたとき・冷笑されたとき・見下されたとき・損をしたとき・差別されたとき……。

大抵の場合、「怒り」は衝動的で、考えるより先に湧きあがる感情だ。非理性的ですらある。「怒り」にとらわれると人は我を忘れ、冷静さを失い、言動が荒れ、しばしば間違いを犯しやすくなる。

瞬間的な「怒り」にまかせて、荒れた雑な行動をとって(それが取り返しのつかない失敗につながって)しまったとしたら、後から冷静になって反省することもあるだろう。あんなにひどい「怒り」に囚われなければよかった。冷静な行動ができなかったのは「怒り」のせいだ。同じ失敗をくりかえさないために「怒り」を鎮めるように心がけよう。

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「怒らない」人もいる。どんな目にあってもニコニコ笑って何事もなかったかのように受け流す。そういう人は、人当たりがよく、好感を持たれやすく、人気者になる場合もあるだろう。

「怒らない」ために「怒り」を自分でコントロールするように努めている人もあるだろう。感情的にならないよう、冷静さを保つよう、常に平常心でいられるように訓練しているのだ。

瞬間的に感じた「怒り」の感情をただちに打ち消し、抑圧し、何事もなかったかのように心を平らかにする。不当な扱いを受けても簡単には「怒らない」。グッと我慢する。感情的になって間違った行動を起こさないようにする。耐える。

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ではもし自分が「怒らない人」になったら、周りの人はどう思うだろう。忍耐強くて心の広い人物だ・どんなことをされても許すことができる度量の広い大人物だ、と喝采を受けるだろうか。「怒らない」から「優しい」人だと好かれるようになるだろうか。

いいや、「怒らない人」はなにをされても(攻撃されても・不当な扱いを受けても・見下されてもetc.)「怒らない」、単なる都合のいい人だと見なされるだけだろう。舐められて、ますます不当な扱いは加速し、見下され続けるだけのことになる。

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いろいろと不愉快なことが起こり、ギスギスとした暗い世の中だ。せめて自分の身の回りだけは心穏やかに、平穏に、静かに、何事もなかったかのように過ごしたい、と願うだろう。

そんなふうに生きている中での「怒り」の感情は、せっかくの穏やかな流れを阻害する。せっかく穏やかな気分でいられたのに、些細なことでいちいち「怒って」いたら台無しになってしまう。

だからなるべく「怒り」を抑え込むようになる。どこまでいけば「怒る」かの基準をどんどん緩めていく。なるべく「怒らない」ように、少々のことでは動じないように、「怒り」の感情のスイッチの感度を下げていく。

これをくりかえしてゆくと、最終的にはなにがあっても「怒らない」人間ができあがってしまう。正確に言うと、なにに対しても「怒れなくなる」のだ。これは決して優しい人間だからとか度量の大きい人だからだという理由ではない。ただただ「怒り」という感覚が麻痺してしまっているだけなのだ。

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「喜怒哀楽」は感情の基本形だ。喜ぶこと・怒ること・哀しむこと・楽しむこと。人はさまざまな場面で時々に応じた感情の動きを発現することで、豊かな心を成り立たせている。

一方で「ポジティブ」「ネガティブ」を対立的に捉え、ポジである「喜&楽」だけと良いものとし、ネガの「怒&哀」は悪いものとして、蓋をして封じこめようとする風潮もある。

これは危険な分けかただと思う。心の動きである感情は、いつも同じほうにばかり振れていられるわけではない。ポジ側に大きく振れたら、ネガ側にも大きく振れて、幅のある動きの癖をつけておくべきだ。いつもポジであろうと無理をすると、感情の振り幅は狭くて限られたものになり、抑圧された状態に慣れてしまい、最終的には感情の動きがほとんどまったくない状態に陥ってしまうだろう。

「怒らない」人は、「無感情」な人でもある。

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怒らないことに慣れすぎると、怒れないようになる。

自然な感情の動きをむりやり抑制し続けていると、感情が動けなくなる。

とりあえず瞬間湯沸かし器のように脊髄反射で怒ってみて、そのあとゆっくり落ち着いて、自分の怒りが正当なものであるかどうかを精査してみればいい。

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「嫌い」をすぐに決めて、「怒り」は感じないようにする。

今の世の中で好まれているのはこっち↑のタイプかもしれない。

でもボクは↓こう思う。

「怒り」はすぐに感じた方がいい。「嫌い」はじっくり考えた方がいい。

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※ボクはアップルパイが「嫌い」です。理由は美味しくないから。でもしばしばアップルパイを食べます。わざわざ自分で作ることもあります。シナモンをたっぷり。そして食べてからこう思います。「ボクはアップルパイが嫌いだ」と。




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