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「○か×か」じゃなくて「!か?か」

最近こういうイラスト、よく目にしませんか。

たとえば、こんな感じ。

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車のおもちゃで遊ぶ子供のイラストで、手を使って車を動かしているほうに「○」、足で動かしているほうに「×」が添えてある。

言わんとしている内容はわかるんですよ。

「おもちゃを手で遊ぶのは正しい。だから○」
「足で遊ぶのは間違っている。なので×」

なるほど。たしかに。納得。

この類いのイラストを見て、もっともだと深くうなずいてしまえるとしたならば、まぁ、それはそれでもいいんですよ。

「手で遊ぶべきだよね、足で遊んじゃダメよね」とか、
「ニンゲンだったら手を使え。足でふみつけるなんて許せない」とかね。

正解か間違いか、スパッと決めてしまえると、気持ちいいですもんね。


それでは、こういうイラストだったとしたら?

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「手で遊ぶなんてもう古い。これからは足で踏むのが流行る!」とか、
「これまで知らずに手で遊んじゃってたけど、足で遊ぶのが正解だったのかー。」とかいいますかね。

いずれにせよ、手が正解で足が間違い、というありきたりの概念をひっくり返されて、新しい視点が得られたようです。

でも「○」「×」の記号に合わせて、むりやり納得させられているような気もします。いくらなんでも「手は×」「足だけが○」ってのは言い過ぎなように感じませんか。


最近よく見るこういうイラストで、いつも気になるのはこの点なんです。

「○か×か」で決めつけすぎ。


「○」の記号が表しているのは「正解」の意味です。
「×」の記号が表しているのは「間違い」の意味です。

学校の試験で解答するなら、「○」の正解だけを狙って「×」の間違いは選択しないように気をつけるべきでしょう。

でも世の中のすべてが、学校のテストみたいに簡単に、スパッと正解と間違いを分けてしまえるものじゃないことは明らかです。

「見方によっては正解」とか、
「立場を変えれば間違いとはいえない」とか、
「昨日までは正解だったけど、今日は間違いのように思えるし、もしかしたら明日からは正解とも間違いともどちらともいえないかもしれない」とかね。

世の中は複雑で、判断に迷うことだらけです。

経験上それが分かっている人は、かんたんに「○か×か」を分けてしまったりはしません。

それでは「○か×か」を分けることができる人って、どんな人でしょうか。

「○か×か」を決める人は、自分が「○か×か」を判断できると考えている人です。

学校の試験でいつもよい成績をとるのが得意だった人は、どうしても幼いころのクセが抜けず、大人になってからも(複雑でややっこしくて簡単には正解か間違いか分けてしまえないような問題に対しても)「○か×か」で決めつけたがります。

学校に通っていたころの成功体験に執着して、いつまでも自分が正解と間違いを分けて判断することができる、と信じているのでしょう。

つまり、“頭のいい人”ほど「○か×か」にこだわりがちなんです。

「○か×か」をスパッと分けて決められないような事柄にたいしてまで、「○か×か」を判断したがるのが、“頭のいい人”の特徴なのです。

……それってほんとうに“頭がいい”んでしょうかね?


たとえば、こういうふうに描いてみてはどうでしょう。

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「○」のかわりに「!」、「×」のかわりに「?」です。

「足で踏んじゃってる?」
「手で遊んでみたら!」

こういうニュアンスが感じられませんか。

そして、「?」「!」の記号を逆にしてみると

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「まだ手で遊んでるの?」
「足で踏んでみたら新しい発見があったよ!」

こんなニュアンス。

「○か×か」で、絶対的な正解と絶対的な間違いを決めつけて、それ以外の解釈を許さないとガチガチにしばってしまうのではなく、
ゆるくて、幅もあり、気づきやちょっと立ち止まって考えてみることをうながす「!か?か」

「○が良くて×が悪いだけではなくて、

「これだけ? こっちも!」
「ひとつしかない? もうひとつもあった!」
「唯一の正解? 別の考え方もあるよ!」

などなど。

「!か?か」には可能性があります。
解釈の余地があります。
スキマや、漏れや、幅や、許容性や、ゆとりがあります。

○で囲んだたったひとつの正解しか許さない風潮は、そのほか大勢の×や?や!であふれるたくさんの可能性を抑圧し、封じこめてしまいます。

「○か×か」を決めようとする場面にでくわしたら、ちょっと立ち止まって、「!か?か」に置き換えて考えてみませんか。

そんなにむずかしいことではないはずです。

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場合によっては、なんでも区別してしまわず、こんなふうにすべてを認めてしまえればいいのにね。

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