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『丘の上の本屋さん』観ました。

映画「丘の上の本屋さん」鑑賞。
しみじみ、いい映画でした。

舞台はイタリアの風光明媚な丘陵地帯を見下ろす、
丘の上の小さな古本屋さん。
景色そのものが世界遺産になりそうな、
それだけでも見る価値のありそうな景気が流れる。

主人公は、その古本屋の店主リベロ。

時おり現れる個性豊かな客も
それぞれがストーリーを持っていて
その相手をしたり、「とんでも」な要望を
リベロは上手にやり過ごす。

ある時常連客が持ち込んだのは
ゴミ捨て場に捨ててあった本と日記。
家政婦をしていた若い女性のものだった。
リベロはひとりになった時
その気になる日記を開いて読んでみる。

ある日、1人の少年が店の前のワゴンを眺めていたところから
ブルキナファソからの移民のエシエンとリベロの物語が始まる。

映画は少年と古本屋主人の交流と、
日記を綴った女性が荒波に揉まれながら
人生の大航海に乗り出す、そのストーリーが
絡み合って進んで行く。

ネタバレになるので、ストーリーはこのへんにして。

本にありがとう。思い出にありがとう。

多くの人は、リベロがエシエンに手渡した本のリストに
自分が好きだった本を探して
本にまつわる思い出話を仲間と共有するのだと思う。

そうなのだけれど、私は少し違った。

込み上げて来るものはありながら
エンディングに差し掛かった時
私はこの言葉に刺さってしまった。

素敵な本に囲まれた中で育ててくれてありがとう

刺さったと言いつつ、正確な表現が思い出せなくて
情けないというか、哀しいというか・・・
でも、こんな意味の言葉が流れた。

本が持つ力はもちろんなのだけれど
それが人の思い出になるのは、
読むことになったきっかけや
読んだ時の感動を友達や家族にシェアした時の
溢れる思い、その時の風景や匂いなど
五感が総動員で駆け巡ったからだと思うのだ。

つまり、人生を支えてくれる思い出を作ってくれたもの。
たとえそれが本でなくてもいい。
こんな思い出が人生を豊かにしてくれる。

実際に、私が育った家にはほとんど本がなかった。
両親が読書家ではなかったからだ。
もちろんゼロではなかったが、両親が本を読んでいる姿は
記憶にないし、本を読み聞かせてもらった記憶もない。

この記憶、何かに塗り替えられて
現実とは違っているかもしれないが、
これが私の中に残る記憶。
本にまつわる思い出がなく豊かではなかったと
言いたいのではない。

思い出は、本やモノに染み込んで
そこに置いておくことで、ふと思い出して
和んだり、豊かな気持ちになったり。
全てを包み込んだ本やモノを大切にするって
豊かな時を過ごしていることなんだなって。

エシエンは、リベロから手渡された本を
ただ本として記憶するのではなく、
リベロから手渡された時のリベロの表情や
読後の会話、その時の本屋さんの光や匂いを
一緒に記憶することで
何物にも変え難い思い出に昇華させていくだろう。

私が育った家には、ほとんど本がなかった。
今、私には好きな本がたくさんある。
私の中にいるリベロと会話しながら
眺めているだけで幸せになるような
私だけの最高の本棚にして
人生の彩りを少しでも豊かなものにしていきたい。

何だかちょっと大きな話になってしまったが。。。
私にとっては
「シーモアさんと大人のための人生入門」に並ぶ
大好きな映画になりそうだ。

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