『捨てない生きかた』 五木寛之著 〜捨てない生き方は面白い〜
『捨てない生きかた』というタイトルの本が目に飛び込んできた。
いくつもの片づけメソッドや思考法が世に出回っている中で、ちょっと挑発的。
表紙は五木寛之さんご本人の穏やかな微笑み。
五木寛之さんは
「身のまわりをスッキリさせなければならないという圧迫感」
が、人を片づけに向かわせる正体とおっしゃっている。
なぜ圧迫感を感じてしまうのだろうか。
私は大きく分けて2つの理由があると考えている。
自分を整え、自分の周りを整えられる人はセルフマネジメントができる人。
簡単に言えば、体重のコントロールができていて、
デスクがスッキリと片付いている人は「できる人」というイメージだ。
100%そうであるとも思わないが、かなり高い確率で成立していると思う。
もう1点は、モノが至るところに溢れ、マーケティングの手法の進化によって
冷静なら必要とは思わないものも、「欲しいかも」と思わされてしまう。
買う、手に入れるということのハードルがどんどん下がって
気がついたら家中にモノが溢れてしまっているのだ。
日本の片づけメソッドが国外で受け入れられる理由
そもそも街や家にモノが溢れていなければ、
片づけるということに社会が関心を寄せることはないだろう。
だって片づけるモノがないんだもの。。
他方、片づけに関心が集まる背景に、片付いた空間に美意識を持つ価値観があると考えられる。シンプルで研ぎ澄まされた空間や、機能やデザインを極限まで絞り込んだ商品は、ZENとして世界で注目されている。日本の片づけメソッドは、そういう目で見られていることに気づいた賢いマーケターやプロデューサーたちが、その点を巧みに織り込んで世界戦略を展開していった。
実際に、ZENだけでなく、マインドフルネスまで動員して普及活動を展開しているメソッドもある。
捨てない生きかたは面白い、という選択
さて、話を五木寛之さんの著書に戻す。
五木さんはこんなふうにおっしゃっている
また、こんな風にも。
人間の日々の営みにモノは必要だ。何もないわけにはいかない。
そのモノと時間を共有することで思い出が生まれ、思い出がモノに染み込んでいく。思い出とは家族や友人との楽しい記憶だけでなくさまざまで、たとえば
- 奮発して購入した時のドキドキ感
- しょっちゅう壊れてイライラさせられた思い出
- 人に勧められるままに購入したが、結局一度も使っていないという小さな罪悪感
これらはどれも、モノに染み込んだ思い出となってモノの一部となる。ふとした瞬間にモノを手に取ってモノとの対話が始まると、人間は一瞬にして思い出当時に連れていかれる。一見ネガティブな感情のように思えても、身体はときめくように反応するかもしれない。もちろん強い嫌悪感を抱いてしまうようなら、それは手放してみるのもいいが、そうでなければ、まずは対話を楽しんでみよう。
五木さんは、捨てることを悪だとは言っていない。また、捨てられない人を擁護しようとしているのでもないと思う。ただ、捨てることが片付けの目的になってしまいやすい現実にあって、安易に捨てられてしまっているモノたちに染み込んでいるセンチメンタルな思い出の意味を考えてみようと提案されているのだ。
こんまり流でいえば、それは立派なときめきで、ときめきを感じるものを選択して残すことが大切なんだと繰り返し説いている。物理的にモノで溢れかえっている空間をスッキリさせたいのなら、物理的にモノを減らすことが必須だから、ときめきを感じられなくなってしまったモノたちは感謝して手放すことになる。思い出が染み込んでいれば、それは手に取った時に身体がときめきという反応を返すはず。本当に手元に残しておくべきモノたちの選択のポイントは、今使っているかどうかではなく、ときめくか。もしくは身体が何かを感じ取っているか。
五木さんは、モノの買い方や手に入れる時の哲学、みたいなお話はされていない。自分の手元にやってくる理由はさまざまだし、自分の意志の外からやってくるモノもあるだろう。ご縁あって我が家にやってきたモノたち。そんなモノたちに思い出を呼び起こしてもらって、人生をより豊かなものにしていこう。そんな人生へのエールだと思った。
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