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あと一回運動

30年以上続いている市民運動がある。けれど、「あと一回運動」と聞いてピンと来る人はまずいないだろう。

だって一人で静かに続けているのだから。実践しているのも知っているのも私だけ。


始まりは、元来モノを捨てられない性格だったこと。

穴のあいた靴下、チビた鉛筆、骨の折れた傘……

「いいかげん捨てなきゃ」そう思うと、なぜか体が重くなる。捨てられない。というか捨てたくない。いや、捨てられたくないのだ。

小さいころから、自分が社会から捨てられることを恐れてきた。この感覚に理由はない。「捨てたる!」と脅されたこともない。こればっかりは心の癖としか言いようがない。

そのうえ生まれ育ったのが大量生産・大量廃棄の時代。使い捨てがフツーの社会だ。フツーに暮らすことは、いつか自分も使い捨てにされることを私に予感させた。

そんな恐怖に突き動かされたのが、「あと一回運動」だった。

やることは単純だ。

ほつれたら「あと一回」繕ってみる。活かせそうな部分があれば「あと一回」リメイクしてみる。若向きの服なんかは、着てくれそうな人を「あと一回」探してみる。エトセトラ、エトセトラ。


続けるうち、モノを入手する前に多少は考えるようになってきた。

長持ちするだろうか。
修理やリサイクルはできるのかな。
似たようなものが家にない?
そもそも使うだろうか。

同時に、自分の恐怖を見つめて行動に移したためだろうか、自分がケアされている感覚はある。


一人でこんなことをしたところで、社会がガラリと変わるわけでもない。私の心の癖も変わらない。

それでも続けるうち、考えることと無縁な私が多少は考える場面が出てきた。つまり変化したのだ。


変化とは、未来への期待と不安という双子を孕んでいる。この双子を宿したとき、同時に人の内面にはエネルギーが湧く。

生きるって、自分の中に湧いたエネルギーを使って動いて変化して、それを繰り返すことかもしれない。そんな変化が重なったとき、どんな未来にであえるだろう。

おっと、エネルギーだけに火の用心。使い方を誤れば火事を起こしかねない。

叶うことなら、私と誰か、そして社会を繋ぐ形で使いたい。それはきっと過去と未来を希望で繋ぐことにもなるはずだ。

そのためにも、どんなエネルギーが湧いているのか、今の私の中の双子を分け隔てなく見つめてみよう。使うのはそれからでも遅くない。「あと一回運動」も私も、そして社会も、まだ続くのだから。

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