新聞奨学生として4年間働いて卒業した話
こんにちは。みゅうと申します。
突然ですが、「新聞奨学生」という制度をご存知でしょうか?
制度について説明をしつつ、私の地獄の4年間について書いていこうと思います。
⚠️奨学会に目をつけられそうなので、全ブロックしてからこの記事を公開しています。リークしないでくださいね。
1.新聞奨学生とは?
ざっくり言うと、
新聞配達員として働く代わりに、奨学金を前払いしてもらう制度です。
大切なのは、給付型ではないということ。
1年更新のため、途中退会してしまうと、その年の奨学金(授業料100万円なら100万円)即日入金する事になります。
あくまで前借りなので、デメリットはとても大きいです。
なので、辞めたくても辞められず、配達はするけど眠くて起きられず学校を休みがちになる負のループが出来上がります。地獄です。
2.新聞奨学生を始めるきっかけ
「自分で稼いで大学行け、東京でも何処へでも」
大学に合格した次の日に親に言われたのがこの言葉。
高校生の私のアルバイトは、やっと最低賃金が800円代になった頃でした。
親は私の進学先のことはまるで無関心で、私はアルバイト代からオープンキャンパスに行くための飛行機代、受験費用を賄いました。
有難いことに推薦枠を頂き、小論文と面接の練習を重ね、北海道から東京に出向き、受験し、勝ち取った大学合格。
なのに、あっさりこの一言で崩れ落ちたのです。
「受かると思わなかった」と、のちに語っていました。
そりゃないよね。親として無責任だ。
「自分で大学費用を貯めている時間はない!今!大学生になりたいんだ!!!」
何としてでも大学に行かなきゃ。
そんな思いで調べ、たどり着いたのが新聞奨学生でした。
「お前にできる訳が無い」
「朝早いんだ、起きれるわけない」
「辞めても帰る家なんてないからな!」
ああ、上等だ。
こっちだって帰りたい家じゃない。
その日のうちに電話し、後日、東京から北海道に来ていただいた担当の方と会議室でざっくりと説明を受けた後、すぐに入会を決めました。
藁にもすがる思いでした。とにかく家を出たかった。
3.初めての新聞配達
上京してから3日間ほど大きなホールで奨学生同士の研修会があり(電話受付や交通ルールなど)、その後配属される販売店で朝刊(A.M.2:00-5:00)、夕刊(P.M.3:00-5:00)の時間帯に前任の先輩と一緒に地区を回りました。
2日目には前カゴに新聞を入れたのですが、
重すぎてハンドルがふらつきます。
新聞そのものはあまり重くはありませんが、中に挟まっているチラシの量でその日の重さは変わります。
何十枚も重なっているチラシが何層にもなって、まるで数キロあるお米を片手で持ち上げているような感覚でした。
自転車は何度も倒し、脚はアザだらけになりました。
「いじめられてるの?」と心配されたこともありました。ある意味いじめです。
持って走ることもままならない、部数は300件を超えていました。場所と名前も覚えなければいけません。無理だ。
「学校が始まったらどうなるのだろう…」
不安を抱えたまま、春が来ました。
4.学業との両立
はっきり言います。かなりしんどかったです。
まず、午後の授業に出ることができません。
奨学生には色んなコースがあり、夕刊免除の代わりに集金業務が課せられるものもあるのですが、私は朝、夕刊コースだったので3限までしか出られませんでした。
それでも恵まれている方です。
ただ、毎日三限終わりはダッシュで帰宅し、30分で家に帰って即配達という日々はかなり体力的にも精神的にも来るものがありました。
また、学校と家が近かったのが幸いでした。
大体夕刊は免除されても15時〜からなので、人によっては2限までの人もいると思います。
休みの日に、他クラスで必修の授業を受けさせてもらったこともありました。この場合、大学側が取り合ってくれたからこそ成立したものですが、中には「新聞奨学生を受け入れない大学」も存在します。
理由は明確で、「授業に出ることが困難」だと判断されるからです。
教員免許などを取る大学では、夕刊配達は不可能です。
配達業務がない所か、コースを選ぶ他ありません。
しっかり考える必要があります。
早朝2時〜5時までの配達終わりに、9時から始まる1限に起きれるかどうか。それも考えて授業を取った方がいいです。
5.支えてくれた人たちへ
朝が早く肉体労働はもちろん辛かったのですが、
販売店でのセクハラや、街での悪質な声掛け、ストーカー被害によって警察沙汰になったなど、女性の新聞配達員という物珍しさで被害にあったこともありました。
そんな中で、どうして4年間も続けることができたのか。
それは大いに、周りの人たちのおかげでもあります。
深夜同じ時間帯に働いていたお弁当屋のおじちゃん。
手渡するたびにお菓子をくれた床屋さん。
いつもありがとう、と、お守りをくれた靴屋さん。
たくさんの人が、私にお菓子やジュースと一緒に、感謝の気持ちを届けてくれました。
また、周りの友だちも。
時間が合わない私のために、合わせて休みを取って遊びに付き合ってくれた人たち。
たった1人だけ朝刊配達の為に早めに帰っていた時は、「ほんとうは帰りたくないのにな」と、泣きながら帰っていた日もありました。
私はほんの数人にしかこの仕事をしてる事を話していません。
理由は、1度「可哀想」と同情されたことがあるのです。
確かに私は「可哀想」です。
自由な時間は限られています。そういう意味では。
それでも、実家に縛られるよりはずっといい。
限られた自由な時間がほんとうにしあわせでした。
それに、私にはこんなにもたくさんの優しくしてくれる人たちがいる。十分です。
自分が選んだ道です。
それでも日々辛いものはあります。
そんな私自身が悩みを吐き出すために、同じ新聞奨学生と交流する場を設ける活動を行い、今日まで悩みを共有してきました。
そこで知り合えたOBや現役の奨学生の人たちとは、一生の友達です。支え合えることはこんなにも心を軽くするのか、と、実感させられました。
孤独な戦いだからこそ、本当は1人ではないことを忘れないで欲しい。
今後は新聞奨学生の未来を支える活動をしたいと、考えています。
改めて、私の支えになってくれて、ありがとう。
6.新聞奨学生を考えている人たちへ
考えてるからこそ、この記事にたどり着いた人がいるでしょう。
ただ、ひとつ言えることは、
"新聞奨学生はやるな"という一言です。
確かに、学費は働けば免除、住まいを提供してもらうことで金銭面の負担は一切ありません。それでも、
かなりの根性と忍耐力が必要になります。
私自身、大学を続けることが困難になり、辞めていく人たちをたくさん見てきました。
睡魔と疲労と孤独感と。たくさん壁があります。
命を絶った人がいた事も、知っています。
だからこそ、生半可な気持ちで始めるのはおすすめしません。過酷な道そのものだからです。
それでも、
学びたい!家から出たい!自立したい!
夢を大きく持っている人たちは応援します。
乗り越えた先に待ってるのは楽しいことばかりです。
やり遂げた達成感は計り知れません。
間違えても、新聞のために学校を休むことはしないでください。あなた達は学生です。休む必要はないんです。
たくさんたくさん学んで、笑顔で卒業できることを祈っております。
さようなら。
深夜2時の空気と、相棒だった電動自転車。