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祖母を偲んで

1月22日は、父方の祖母の命日。
32年前のこの日の朝、出先に向かう途中であったろう祖母は、
タンクローリーに轢かれ、あっという間に急逝した。
当時24歳だった私。
勤めていた職場に、至急警察署に来るようにと連絡が入り、
どうして病院ではないのだろうという疑問は、
遺体安置所のストレッチャーの上で、緑色のカバーで覆われた祖母の姿を目の当たりにしたとき、その疑問が解けた。
足の爪しか、確認ができなかった。
そういう状態だった。

祖母は、私にとって育ての母のような存在だった。
幼少の頃から一緒に過ごす機会は多かったが、ある数年間(中学生になる頃から高校生の初め頃にかけて)は、祖母の自宅で生活をほぼ共にするような時期があった。
料理や裁縫、生活の知恵、あらゆることを祖母は日々の暮らしの中で、
一緒に楽しみながら教えてくれた。
料理をしながら、裁縫をしながら、編み物をしながら、散歩をしながら、
私たちはよくおしゃべりに興じ、
祖母は他愛のない会話の中に、生きる喜びや希望に繋がるエッセンスが自然に湧き出てくるようなさり気なさで、いつも何か大切なことを伝えてくれていた。

その当時、不安や緊張や猜疑心に満ちた真っ暗闇の中にいる自分、その真っ暗闇自体が自分そのものだと信じて疑わないくらい膠着し、身動きが取れないような心もちで、身体の動かし方はおろか呼吸の仕方も分からなくなるような時を生きていた私。
そんなことを祖母に話すことはなく、話そうなどという思いつきすらもなかったけれど、そのエッセンスは、岩に沁み入るようにほんの少しずつ頑なな私の内に届いていたのだと思う。
そして、その後の人生の様々な局面で、それらのエッセンスは気づきの糧となり、私の変容や成長を優しく促してくれたことを思い出す。


ある時期、母が自身の感情のコントロールがかなり難しくなった頃、祖母の前でも私に暴言暴力を浴びせるほどに、抑えることが出来なくなった時があった。
要するに、日常的にそういうことが続いていてどんどん助長され、それが慢性化し、そのうち誰かが見ていようと気にならないところまで、暴力への衝動が臨界を超えていた時だったのだと思う。
私はその時中学1年生だったが、幼少の頃から常態化している暴力に鈍磨し、抵抗するという手段すら思いつかなかった時だった。
それが初めて祖母の前で起こったとき、その瞬間祖母は、小さな身体で母と私の間に割って入り、母を止めようとしてくれた。

その時初めて、誰かが身を挺して守ってくれるということがあるということに、私の中で固く閉ざされていた何かが割れ、風穴が開き、そこから何かが洪水のように流れ込んでくるような衝撃を覚えた。
その衝撃を、私は一生忘れないと思う。
そして、母と祖母の間で鬼気迫る光景が繰り広げられ、永遠に続くかのように思われたその一瞬一瞬もまた、私は一生忘れないと思う。
今だから言えるのかもしれないが、母も祖母も私に何か大切なことに気づかせてくれる
かけがえのない一場面を共有してくれていた。


祖母が急逝してからも
私は、日々の生活の中にどっぷりと浸かり、
人生イコール私そのものだと疑う余地もなく、葛藤や苦悩と共に生きていた。
感情は麻痺し、祖母の死後12年程涙を流したことがなかった。
そのことに気づいてすらいなかった。

けれど、ある時友人との会話の中で、祖母のことを話す機会があった。
淡々と話していたのに不意に涙が溢れ、その後どうしても止まらなくなった。
この時まで、それまでの12年間、涙を流したことがなかったことにも、祖母のことを口にすることもなかったことにも、気づいていなかったことに気づいた時、はっとした。
祖母が私を庇ってくれた時に感じたような衝撃が走り、固く閉ざされていた何かが涙と共に決壊し、やはり風穴が開いたような強い感覚を覚えた。
そして、この時から、沢山の気づきと共に、急速に深い変容が起こってくる流れが始まったように思う。

その流れの中で、赦しのような何かが、私を通してゆっくり、行きつ戻りつなぞられながら、いつしか糸の絡まりがほどけていくように緩んでいる境地が感じられたとき、そこには感謝があった。
その時、感謝という実感を、初めて味わったような気がした。
そしてそこは、赦すことも赦されることも超え、何にも影響されないような、平穏で安寧そのものなのだと気づいた。
私は、それを知りたかった。
そして、それそのものであることを理屈や綺麗ごと、上っ面の何かを超えて触れたかった、知りたかったのだということにはっきりと気づいたのだ。


ストーリーは思考から生み出された幻想。
しかし、経験は源から顕れてくるリアリティそのものだとも思う。
経験は、何に気づきたがっているのかという内奥の声というのだろうか、そのほんの微かな、それでいて絶え間なくあり続けるその声に、人生として、いつだって無条件に差し出されているように感じるのだ。
そして、まっさらの何の忖度も注釈も制限も何もない境地そのものが、顕れてくるあらゆる全てをただ観ている…

観られているもの、観ているもの、そして観ているものすら観ているその何かにふと気づくとき、それは拍子抜けするくらいシンプルさがあると共に、理屈を超えた深い納得や、宇宙のような無限に拡大している何かすら、そのまんまどこかすっぽりおさまりどころにおさまり、息づいているような不思議な安心を覚える。
それはどこまでも永続する真なるものであり、意識そのものなのだろうか…
今はそんな気がしている。

全てに感謝しています。
有難い全ての軌跡に、全ての存在に、愛に、この宇宙に。















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