繊細さん 本当に自分が悪いと認められた時、心は苦しくないかもしれない
繊細さんをやっていると、誰かに怒られたとき、何か言われたとき、「自分が悪い」と思いがちです。
全て物事は誰も悪くない、と言いたいのですが、自分の心の中では違います。相手がいた場合、相手の心の中でも違います。
心が苦しいのは①②のパターン。例えば相手に責められ、「悪いことしたな」と思う、思いながら「でも、、○○・・・」と思っていたら、①で、このパターンは多い気がします。「謝ったのに許してもらえない」なんて逆切れめいた考えが浮かぶのもこれで、何割かは自分以外のせいにしていますね。②は「私は絶対悪くない」と思っているのに、つい第三者に「これって私悪くないよね?」と確かめたくなってしまうようなこと。どちらも心が苦しいです。
①「自分が悪い」と思いながら、「自分が悪い」と認められない
②「自分は悪くない」と思いながら、「自分は悪くない」と認められない
③「自分が悪い」と思いながら、「自分が悪い」と認めれる
④「自分は悪くない」と思いながら、「自分は悪くない」と認められる
ところがパターン③のとき、何とも言えないあきらめ、というか、謝る以外出来ることがなくなったとき、要はもう態度が決まっているわけで、こうなったとき心は静かになるみたいです。
謝罪しかない。取り繕うことも、必要以上に自分を責めることもありません。逆に言うと「自分が悪い」と思いながらも、自傷したり思いつめたりして必要以上に自分を責めてしまうとき、実は「自分が悪い」と認められていない状態なのかもしれません。
もちろん、どう謝罪するか、お詫びの品はどうするか、出来る限り挽回するとかその後のフォローとかは考えるのですが、どんなに責められても受け入れられる覚悟があれば、思考は動いても、心は動じないというか。許してもらえなくて当然、その上でじゃあどうするか、ということに素直になれるわけです。
なお、④は多分あったとしたら、何も気にしないですね。②の果てにたどり着く可能性もありそうですが。
事態を好転する(相手に許してもらうなど)の手立ては別です。そこで思い悩み苦しむことはあるかもしれません。
ただ、何か言われた、喧嘩した、怒られた、ミスした、そんなときに本当に自分が悪いと認められた時、「嫌われたらどうしよう」は「嫌われても仕方ないことをした」になり、「クビになったらどうしよう」は「クビになっても仕方ない」になり、「これ以上何か言われたらどうしよう」は「取り繕うことなく謝るしかない」になり、そういった意味で、心は苦しくないかもしれない。そう思いました。