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あなたが見ている世界を、わたしにも見せて。

最近、人の書いた文章を読ませてもらう機会がぽつぽつ増えた。彼ら彼女らの普段の顔を知っている場合もあり、その人らしい一面も、意外な一面も浮かび上がってくる文章というのは、本当におもしろいと改めて感じている。

まぁ「普段の顔」とわたしが思っているものも、本人がもつ顔の中の、とある一面にすぎないのだけど。

そのように、わたしは「人のフィルターを通したもの」を見ることがすごく好きなようだ。

文章、絵、写真、映像、音楽……料理やお酒もそうかもしれない。何かをつくるとき、わたしたちは自分自身か、他の誰かか、伝えたい何かか、それとも、今すぐにでも吐き出してしまいたいような感情か。何かしらを目の前に置いて向き合っている。

そうした作業の中には役割を切り分けて誰かと協同できるものもあるが、基本的に自分で何かをつくるときというのは、カメラのファインダーを覗く瞬間のようにひとりきりだ。

その本人しか知りえない「ひとりきりの瞬間」にわたしは非常に興味があり、見てみたいと思う。そうした世界をオープンにして共有してくれる人が、わたしは大好きだ。

たとえば、ひとりで歩いているときにふと感動した空や花の写真を思わず撮って、すぐにインスタにアップしちゃうようなタイプの人。そういう感性とスピード感をもつ人を、わたしは好きになりがちである。

そういえば最近、知り合いのとある女の子の写真を見た。わたしから見た普段の彼女はまるで、お日さまの光をたっぷり浴びた干したてのお布団のように、まっしろであたたかくて、人をふんわり優しく受け止めてくれるやわらかい子だ。弾けるような表情や明るい声も、とにかくかわいい。

そんな彼女がフィルムカメラで撮った写真は、とても楽しそうでありながら、「この瞬間が過ぎ去ってしまうのは悲しいよ」と思わせるような、ちょっとだけ胸がぎゅっとなる切なさが詰まっている。それはきっと、彼女が大切な人との一瞬一瞬を噛み締めるようにシャッターを切っているからだと思う。

「彼女が見ている世界って、こんなふうに映っているんだ」と思うような写真に、わたしは一気にファンになった。

もし彼女とわたしが同じ空間にいて「せーの」で写真を撮り始めても、彼女とわたしが切り取るものは違うだろうし、同じ被写体を撮ろうとしても、異なる雰囲気に仕上がるのだろう思う。まったく同じ写真データを渡されたとしても、それぞれの好みで加工すれば違うトーンの写真になるはずだ。

人がそれぞれもつ個性というのは、本当におもしろい。五感の優位性も違えば、物事の認知能力も違う。これまでの経験も学んだことも、考え方もみんな違い、その複雑な組み合わせがわたしたち一人ひとりを作っている。

たとえ同じものを見たとて他者とまったく同じように捉えることはできないけれど、物事の捉え方や感性が近い人というのは居心地がいい。違いがおもしろさや発見を与えてくれることも大いにあるが、あまりに物事の捉え方が違う人は居心地が悪いし、思いもしなかった方向から切り込まれて「そんな捉え方もあるのか」と驚くこともある。

だからこそ、より近い関係性として踏み込む場合は、相手のアウトプットをたくさん見て、自分の中に違和感がないか確認することは大事だろう。じめっと暗いトーンの写真を撮る、爽やかで明るい性格の人をわたしはほとんど知らない。

文章や写真にはその人の内面がだいたい映し出されているし、作る料理の味があまりに自分と違うようであれば、一緒に生活できる相手ではない。

同時に、自分のことをよく知り、人にもよく知ってもらうには、何かしらのアウトプットで表現することが大切だ。誰にも関心をもってもらえない、気の合う人と出会えないと感じている人がいるとするならば、あなたに足りないのは魅力ではなく、アウトプットかもしれない。

あなたが見ている世界を、もっとわたしたちにも見せてほしい。その先に、わたしたちの新しい世界がまた広がっていくから。

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