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禅とキャンプは似てるという話(そんなの野狐禅だけど)

割引あり

 ALOHA! みゆひょんでーす♪

 禅宗っていうと、お坊さんが自給自足の労働(作務さむ)をして、それ以外はごはんを食べて、お手洗いやお風呂に入って、残った時間は坐禅をしているか寝てるかってイメージない? でさあ、キャンプもやっぱり、基本的に肉体労働をして、それ以外はごはんを食べて、おトイレにいって、ぼーっとして、眠くなったら寝るって感じなのよね。

 だとしたら、禅とキャンプの違いって、坐禅してるか放心してるか、だけじゃない? で、坐禅と放心も、ちょっと似てるのよ。どっちも、余計な考えごとをしたらダメなんだけど、考えごとをしないことにとらわれてもダメなの。要するに、禅とキャンプはそっくりってこと。


百丈懐海という頑固ジジイ

 禅寺の、自給自足の生活を規定したのは、百丈懐海という中国唐代の偉いお坊さんなの。お師匠さんは馬祖道一、お弟子さんは黄檗希運、孫弟子が臨済義玄。いちいち憶えなくていいし、私も本を見ながら書いてるんだけど、これは唐代禅僧オールスターズという師弟関係の流れね。

 百丈さんは、有言実行・率先垂範の人。自分で作った決まりごとを死ぬまで守ったの。「一日不作一日不食(一日はたらかざれば、一日くらわず)」という言葉があって、これには次のようなエピソードがあるのね。

 お年を召しても、作務を休まない百丈さんの体を心配したお弟子さんたちが、「頼みますから、休んでください」と懇願したの。でも、頑固な百丈さんは聞き入れないのよ。困ったお弟子さんたちは、百丈さんの作業道具を隠しちゃうの。お師匠さんが頑固ジジイだけあって、お弟子さんたちもちょっと強引なのね。道具がないから、百丈さんは仕方なく作務をお休みした。お弟子さんたちがホッとしたのもつかの間、百丈さんはとんでもないことを言うのよ。「わしは今日一日働かなかったから、今日の飯は食わん(一日不作一日不食)」

 きっとお腹をぐうぐう鳴らしながら、言ったんでしょうねえ。お弟子さんたちは、百丈さんに「休んでください」と二度と言わなくなったんだって。

 これっていい話なのかしら? まあ、私がどう思おうとも、「一日不作一日不食」は、その後の禅宗の基本姿勢になったの。頑固ジジイの完勝ね。

 キャンプ、特にソロキャンプでは、「一日不作一日不食」は基本姿勢。ごはんは出来合いのお惣菜とかで済ませても、設営しなかったら、ごはんにはありつけない。繰り返しになるけど、禅とキャンプはよく似てる。

 職場や友人同士でキャンプに行ったら、何も働かないくせに、ごはんとお酒だけは張り切っている人がたまにいるけど、そんな不埒な人には、「一日はたらかざれば、一日くらうべからず」と言い放って、ごはんとお酒を取りあげてしまうのが、本人のためじゃないかしら?

漠然と見てちゃダメ

 百丈さんは、数多い唐代の禅僧の中でもスーパースターの一人だから、エピソードがたくさん残ってるの。中でも、お師匠さんの馬祖さんとの次のやり取りが有名。

 馬祖さんと百丈さんが田舎道を歩いてたら、野鴨の一群が飛び去っていった。
 馬祖さん。「あれは何?」
 百丈さん。「野鴨です」
 「何処へ行ったの?」
 「向こうに飛んで行きました」
 馬祖さんは、アホかと百丈さんのお鼻を力いっぱいねじりあげた。
 「ぎゃあ。痛いですー」
 「飛んで行ったー? 野鴨はここにいるじゃん」
 百丈さんは、この一言で悟ったの。

『碧巌録』より要約

 これって、まさに禅問答よね。ちょっと何言ってるか、わからない。こんな対話で百丈さんは悟ったって言うんだから、すごいよね。わかったふりをして、ちょっとだけわたしの解釈を披露するね(あくまでわたしの解釈よ)。

 馬祖さんは、漫然と見ることとしっかり観ることは違うと言いたかったんじゃないかしら。百丈さんは、野鴨の群れを漠然と見てただけだから、「あー、鴨が飛んでっちゃいましたね」みたいなことしか言えなかったの。だけど、しっかり観れば、心に刻まれるのよ。もっと言えば、百丈さんという宇宙の中に、野鴨の群れが飛んでるみたいなことになるのね。馬祖さんが、百丈さんにわざわざ「あれは何?」って聞くからには、そういう観方を求めたってわけ。百丈さんは、お鼻をねじりあげられて、「鴨はここにいるじゃん?」って言われて、ようやくそのことに気づいたってわけなのよ。知らんけど。

 でも、ほとんどの人がお鼻をつままれても気づけずに、「痛い、痛い」って言ってるだけだから、百丈さんはすごく偉いのよね。

禅の高僧はすぐ叩く

 百丈さんは、師匠の馬祖さんがまず乱暴で、そしてお弟子の黄檗さんも、孫弟子の臨済さんもかなり乱暴なので、ちょっと穏やかなイメージが私にはあるの。でも、百丈さんにもやっぱり、乱暴なエピソードはある。

 あるお坊さんが百丈さんに尋ねたんだって。「仏法で一番すばらしいことは、なんでしょう?」
 「わしが今、ここに座っていることじゃ」
 お坊さんは、即座にひれ伏して百丈さんを拝んだの。でも、百丈さんは、このお坊さんを棒で打ったんだよね。

『碧巌録』より要約

 こんな感じでね、中国、特に唐代の禅の偉いお坊さんは、みんなすぐに棒で打ったりするのよ。ホント、乱暴な人たち。で、この話は奥が深くて、何通りにも解釈できるの(さっきの野鴨のお話も、そうだけどね)。お坊さんがよくわかりもしないで、ありがたがったんで、それを見抜いて棒で打ったって解釈がまず成り立つよね。でも、どうもそうではないらしくて、お坊さんがすでに十分、禅を会得していたのに、無知なふりして教えを請うたから、叩いたって解釈もあるの。「わしを試したんかあ?」みたいなことね。逆に、すぐに礼拝したお坊さんの気合いを褒める意味で、棒で打ったという解釈も有力みたい。

 いずれにしても、禅の偉いお坊さんたちは、怒っても、褒めても、すぐに棒で殴るってこと。まったく油断できないよね。

 これだけいろんな解釈が成り立っちゃうと、もう何でもありって感じしない? でも、そのときどきの心の持ちようで好きに解釈したらいいじゃん、という自由さも感じるわね。

わたしも野狐にされるわね

 百丈さんのエピソードをもう一つだけ紹介して、今回は終わりにするね。

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自分のしたいことと向き合うことで、わたしはしあわせになれたと思っています。わたしの生き方を知って、ちょっとでも癒やされる人がいればいいなあという気持ちで書いています。スキやフォローは本当に励みになりますので、よろしくお願いいたします。