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楽に生きようよ―自分の力の及ばないことはあきらめて、力の及ぶことも努力はしない

割引あり

 ALOHA! みゆひょんでーす♪

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 なんて、宣伝をすることも、この記事の主旨に2つの意味で反するかもしれないのだけど、したくなったので、しておきます。

 突然ですが、ひろさちやさんをご存知でしょうか。ご存じない方はWikipediaで恐縮ですが、どうぞ。

 見ていただければわかるように著書多数で、わたしはそのうち数冊しか読んでないのだけど、どれもすごく感銘を受けたの。やる気に関する本を100冊ぐらい読んだとほかの記事に書いたのだけど、やる気以前に生きるのが苦しかったので、ひろ先生の御本にはホントに救われたの。

 昨日、上のマガジン(『禅的キャンプ』)のネタ探しでKindle Unlimitedにいい本はないか探していたら、たまたま『坐らぬ禅』という本があったので、ダウンロードしたのね。宗教的な側面としては坐禅がとても大切なのは理解できるのだけど、瞑想なら寝たままでもできるし、それこそキャンプで焚き火を眺めながらでもできる。タイトルだけ見て、「我が意を得たり」と思ったのよ。

 だから著者を意識せずにダウンロードしたのだけど、著者名を見たら「ひろさちや」と書いてるじゃない。しかも「絶筆」!と書いてある。「あらま。ひろ先生、お亡くなりになってたの?」とびっくり。コロナ禍のなか、ひっそりと肝臓ガンで亡くなっていたの。

 ということで、いま先生を悼みながらも、御本は楽しく読ませていただいているのだけど、すごく大事な気づき(悟りとまでは言いません)があったので、シェアしたくて書きました。


阿呆になれ、馬鹿になるな

 冒頭で、ひろ先生は「禅とは何か?」の答えとして、

 ――阿呆になれ!――
 ――馬鹿になるな!――

『坐らぬ禅』より

に尽きると書いてるの。

 ひろ先生は大阪生まれなので、阿呆のほうが良い意味で、馬鹿は悪い意味と使ってるのね。だから東京出身の人なら阿呆と馬鹿を入れ替えて読んでもらってもいいし、名古屋出身なら阿呆をたわけと読み替えてもいいと言ってる。

 アントニオ猪木さんの名言に「馬鹿になれ!」というのがあるけど、これはひろ先生のいう「阿呆」。スティーブ・ジョブズの”Stay hungry, stay foolish.”の”foolish”も同じく「阿呆」といっていいと思う。ちなみにジョブズの禅好きは有名。

 ひろ先生は、馬鹿と阿呆の違いを次のような例で説明してる。

 わが子が不登校になったときに、カウンセラーに相談したり、無理やり学校に連れて行く親は馬鹿。一緒になって会社を休んで、学校も好きなだけ休めという親が阿呆。

 不登校のお子さんがいる親御さんから非難囂々と思うけど、ごめんなさい、わたしが言っているわけではないの。ひろ先生がそのように書いているのです。

 で、ひろ先生のいう意味は、なかなか解決できない問題(特に他人を変えないといけない問題)を解決しようとして努力し、もっと悪い結果を招くのが馬鹿。そのような問題の解決はあきらめて、ひとまず受け止めるのが阿呆ということだと思う。

 だから阿呆になっても問題が解決するとは限らないのだけど、馬鹿よりはいい。なぜかというと、阿呆は、余計なことを考えないので変に苦しまないし、自分がこんなに努力しているのに相手が変わってくれないということで人を恨むこともない。

 まあ実際にわが子が不登校になったとしたら、慌てふためいて馬鹿になる人がほとんどだと思うけど、他人事、つまり冷静に考えると何となく阿呆の親のほうが子どもも救われる気がしない?

あきらめとは明らめ

 仏教では、「諦める」ことを大切にしているけれど、そもそも「あきらめる」の語源は、「あからめる」と言うわね。「ものごとのことわりを明らかにして、理に合わないことを捨て去る」というのが、「あきらめる」ということなの。

 だから「問題の解決をあきらめる」とは、「自分の力で解決できる問題かどうかを明らかにしたうえで、そうでない問題は無理に解決しようとしない」ということになる。

 これはすごく大切な心構えで、わたしの禅はやっぱり野狐禅やこぜんだなと思ったのは、このことをすっかり忘れていたから。

 わたしはトランス女性を自認していて、女性の格好でお仕事も普段の生活もしているのだけど、生まれつきの女性の多くが嫌だということは、自分が女性と思うからこそしないのね。でも、世の中には「トランス女性」というだけで、「性加害者予備軍」というレッテルを貼って警戒する人たちもいる。最近では、トランスジェンダーという概念すら否定する人が増えてきてる。

 わたしは幸いなことに周囲の方々の理解に恵まれて、そういう差別を直接受けたことはないけれど、LGBT理解増進法の騒ぎ以降、蔑みや嫌悪の視線を受けることが増えたと感じる。被害妄想かもしれないけれど、恐怖さえ感じてるの。

 だから嫌だなあ、つらいなあとちょっとウツになってたのだけど、そういう人たちを変えることは難しいということを忘れてたのね。それをひろ先生の「馬鹿になるな! 阿呆になれ!」という言葉で思い出せたの。

 世の中には「トランス女性」と聞くと「ちんちんがついてる/ついてたくせに自分は女だと言い張る、変質者で性加害者予備軍」みたいに思う極端な人もいるし、そういう人はだいたい声が大きいのでたくさんいるように見えるけど、わたしの周囲にはわたしを受け入れてくれる人のほうが圧倒的に多い。だから、どうしたって変わらない人たちのことはあきらめるしかない。そう思えたら、ホント楽になれたのよ。

 なんて書くと、脅迫コメントやメッセージが来そうで怖いけど、それもあきらめるしかないかなって。

努力をする必要もない

 こうして今回も、ひろ先生に救われたのだけど、ひろ先生のおっしゃることでも、全面的に受け入れているわけではないの。

 先生は、こうもおっしゃってる。

 ただし、この「あきらめ」も、多くの人が考えるあきらめ――諦め・断念・思いきる――ではありません。これも、自分の努力によって改善できる、思うがままにできることであれば、努力すべきです。そういうケースにおいて努力を放棄するのは怠け者(もっと言えば馬鹿者)のすることです。

『坐らぬ禅』より。太字は筆者

 この太字にした部分について、わたしはそのまま受け入れられないの。たぶんひろ先生とわたしとでは「努力」の意味が違うのだと思うのだけど、わたしは「努力」などしなくていい、というか「努力」と思うからしんどいと思うのよね。

 ここにも書いていることと同じで、問題が発生したときもネガティブな感情や思考をいったんどこかに置き去って、心を空にすれば、良いアイデアが浮かんでくるし、前向きな行動も取れるようになれる。でも、それって「努力」かしら? わたしはそうは思わない。だってホント、楽なんだもの。 

 ひろ先生はこうもおっしゃってる。「病気になれば、われわれは病人として毎日を楽しく送るようにすればいい」「阿呆は貧乏なまま毎日を幸福に生きようとします。そういう阿呆になれ!というのが、禅の教えです」。そこに「努力」なんてむしろ不要というのが、わたしの考えなの。

 ところで冒頭で、「なんて、宣伝をすることも、この記事の主旨に2つの意味で反するかもしれない」と書いたけど、どういう意味かはわかるよね?

 まあ、でも、書いときます。スキ以前に読者が少ないので宣伝したのだけど、何を読むかを選ぶのは読者なので、自分にはどうしようもない。だから宣伝自体が無意味というのが1つ。逆に宣伝自体に意味があったしても、読んでもらおうと「努力」していることが自己矛盾だというのがもう1つ。

 もっといえば、それでも読んでほしいという執着心がいまだに抜けないわけで、われながらやっぱり野狐禅だなあと思う次第です。

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自分のしたいことと向き合うことで、わたしはしあわせになれたと思っています。わたしの生き方を知って、ちょっとでも癒やされる人がいればいいなあという気持ちで書いています。スキやフォローは本当に励みになりますので、よろしくお願いいたします。